仁徳天皇陵はなぜ発掘調査しないのか?

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536名無しさん@お腹いっぱい。
  1872年、仁徳陵古墳が水害でくずれて内部が露出しましたが、そこから出土されたとされる銅鏡や環頭太刀などがアメリカのボストン美術館に所蔵されました。
  この鏡は、同心円上に丸い突起が七つあることから七子(ななつこの)鏡とよばれますが、これが民族派の懸念(?)どおり、百済武寧王陵の宜子孫獣帯鏡とそっくりなことが韓国でのコンピューター画像解析により最近判明しました。
  銅鏡の大きさはもちろんのこと、白虎や青龍など四神の紋様があることや、全体の姿かたちなど瓜二つです。同志社大の森浩一教授によれば、それらはいわば兄弟鏡で、日本か百済で作られたのだろうとのことでした。
  この史実に関係ありそうな記述としては日本書紀があります。神功皇后の記事にはこう書かれました。

 「52年、秋9月10日、久テイらが、千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀(ななさやのたち)一口(ひとふり)、七子鏡一面、それにさまざまの重宝を献上した」

  この記事は、もちろんそのまま信用するわけにはいきませんが、ある程度は何らかの史実を反映しているようです。たとえば、百済から贈られた七支刀も実際に存在し、国宝として石上神宮に保管されています。不思議な形をしたこの刀は、もちろん百済製です。
  同様に、七子鏡のほうも中国との関連は薄いので、かりにこの鏡が百済で製作され倭に贈られ、最終的に仁徳陵古墳に埋葬されたとしても、とくに不自然な点はないようです。
  さらに、同古墳から出たとされるもう一つの遺物の環頭太刀について記すと、これは武寧王陵の遺物に比べれば装飾的にシンプルですが、ともかく似ており、森氏によれば、両者はいわば叔父・甥くらいの関係になるそうです。

  一方、仁徳陵古墳の近くには渡来氏族の船氏や飛鳥部氏など有力な豪族が住んでいたことが知られており、同古墳周辺は百済の影響が絶大だったようです。
  その名残は現在でも地名などに残り、百済駅、百済大橋、南百済小学校などが現存します。おまけに百済姓を名のる人もいるくらいです。
  仁徳陵古墳の主が仁徳大王かどうかは別にして、ともかく天皇の陵墓と考えられているので、当時、倭の天皇(大王)は百済王と特別な関係にあったようです。井沢元彦がいうように、あるいは天皇の祖先は百済からきたとしても荒唐無稽ではないようです。

http://www1.jca.apc.org/aml/200006/17961.html