【テンプレ特化】安倍総理をマスゴミから守る会★3

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249朝まで名無しさん
凸&拡散 第二次世界大戦直後に韓国人が日本女性を5000人以上強姦して妊娠させた詳細な記録と証拠が厚生省に存在する事の確認とそれらを国内外に公表する事を要請
 九州の二日市保養所以外に何箇所かそのような施設が設けられました。
 二日市保養所など数箇所の中絶施設は、厚生省の指揮で設立された緊急対応施設です。

(以下抜粋)
http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-50/hirao.htm
関釜裁判ニュース第50号
桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍

終戦の翌年、1946年の春、日本に帰還していた京城(大韓民国の首都ソウル。日本統治下、朝鮮総督府がおかれた)。
日赤の同期の看護師10名が、福岡市の近郊、二日市へ集結した。対馬に帰還していた当時、20歳の村石正子さんも日赤の事務長から連絡を受け、用件も明確には伝えられないまま、二日市に赴いた。
そして、桜の蕾が芽吹き、満開となり、やがて葉桜となる3月から5月までの3ヶ月間、二日市保養所でその勤務にあたった。

二日市保養所は、引揚者の救済活動をしていた在外同胞援護会救療部によって、戦時中の愛国婦人会保養所の建物を利用し、1946年3月に開設された。
引揚の混乱の中で暴行を受け、妊娠した女性の中絶や性病の治療等に約1年半にわたって携った。

大陸からの引揚港博多からトラックに乗せられ、運ばれてくる女性たちの姿を見て、村石さんは、事の次第を理解した。

異形の者…彼女たちの様相を現わす言葉は、他に見出せなかった。

一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を風呂敷で巻き、汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、次々と保養所に運ばれてきた。
引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く刈り込んでいたが、膨らんだおなかを見れば、それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは、いや増すばかりだった。

戦争の周縁では、どの時代、どの地域であっても例外なく必ず性暴力の被害が生じる。この世で最も忌むべき戦争と戦時性暴力は、お互いが癒着し、蛇のように絡まりあい、切っても切り離すことなどできない。

多くの嬰児の遺骸がどのように処理されたのか、はっきりとしたことは不明である。
250>>249つづき:2013/05/17(金) 13:12:32.15 ID:6Kmx9e/S
一部はホルマリン漬けにされ、大学病院へ引き渡されたとか、保養所の敷地に埋められたという証言がある。
(『証言・二日市保養所』引揚げ港・博多を考える集い編、『沈黙の40年』武田繁太郎、『水子の譜』上坪隆)


http://fujisa●nsaikyo.blo●g70.fc2.com/?mode=m&no=273
博多港引き揚げ者らの体験
◆厚生省「超法規的措置」で保養所開設

二日市保養所。入り口脇には「厚生省博多引揚援護局保養所」の看板がかかっていた(福岡市総合図書館所蔵「博多引揚援護局史」より)

 「不幸なるご婦人方へ至急ご注意!」。満州(現中国東北部)や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。
 「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり……そのため体に異常を感じつつある方は……」「診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」
 全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連(当時)の兵隊などの暴行で妊娠していた女性には見当が付いた。
 中絶手術。優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。

ビラを配ったのは、現在の韓国の首都ソウルにあった京城帝大医学部の医師たちのグループ。

 このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、ほとんどは45年12月ごろに帰国。
引き揚げ者の治療を続けるため、外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え。
46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺「聖福寺」に、診療所「聖福病院」を開設した。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukuoka/feature/fukuoka1219285796736_02/news/20080821-OYT8T00361.htm
二日市保養所跡