【香淳皇后】
戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で野菜を作り養鶏も行った。敗戦後は
引き揚げ者のための布団や着物作りを行なった。皇室の在り方が一変して後は、
皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする
昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。
昭和22年(1947年)の日本赤十字社名誉総裁就任をはじめとして、
昭和27年(1952年)以降の全国戦没者追悼式、昭和39年(1964年)の
東京オリンピック開会式、昭和45年(1970年)の日本万国博覧会開会式、
昭和47年(1972年)の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの
出席はその例である。靖国神社への天皇親拝にも度々同行している。
書、刺繍、日本画、謡(観世流)、バラの栽培など多趣味で、バラは皇后自ら鋏をとり、
枝の剪定などを行っていた。特に、日本画は玄人はだしで、ご成婚以前には
高取稚成から大和絵 を学び、その後川合玉堂、前田青邨に師事 (以上wiki)
<昭和天皇60歳の頃>
時代は変わり、1960年代に、侍従であった入江相政は、昭和天皇の高齢を配慮し、
祭祀の負担を軽くすることを考えた。昭和天皇はこれを了承する。
(中略)
香淳皇后が祭祀の簡素化に断固反対するのである。入江によると、宮中にクーラーを
入れようとした時、昭和天皇からは許しを得るが、これに反対したのも香淳皇后であったという。
皇后は「賢所に釘を打ってはいけません。夏の暑さぐらいお耐えになれないお方ではいけない」
と言われたという。
ttp://night-news.moe-nifty.com/blog/2005/04/post.html <昭和天皇70歳の頃>
数えで70歳となられた昭和天皇を気遣われた香淳皇后は、数ある宮中祭祀のうち、
代行できるものは御自ら代行され、少しでも昭和天皇の御負担を減らされようとされた。
天皇の代行など、皇后といえども簡単にできることでないのは百も御承知の皇后で
あられたが、新嘗祭など代行不可のものは除き、多くは明治以来の、
いわば祭祀のための祭祀のようなものを代行しようとなされた香淳皇后の思いやりは、
まことに深いものであった。
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