【保守の怒り】皇室問題を語る【疑問と不満】part42
皇后美智子さま「愛と慈しみ」の40年―陛下とともに歩まれた心の旅路
<美智子さまと封印された聖書>
▽皇室会議で問われた「正田家とキリスト教」!@
「皇太子明仁親王殿下と正田美智子嬢の婚姻について、皇室会議を開催いたします」
今から40年前。昭和33年11月27日。
皇居内・仮宮殿の3階にある東一の間。窓から皇居の緑を前にして丸の内のビルが望まれる。
40坪ほどの明るい部屋。
議長は岸信介首相(当時)で、出席者は皇族議員として秩父宮勢津子妃と高松宮宣仁親王。
それに衆参両院の議長および副議長、最高裁長官、判事(1名)、宇佐美毅宮内庁長官の合計10名。
宇佐美長官から正田美智子さんの家系、人柄、学歴、教養、健康状態などがのべられ、
家系図に記された正田家の一人一人についても細かい説明がなされた。
「何か質問はありませんか」と岸議長。
誰からも質問は出なかった。
「それでは私からひとつ質問をします」
岸議長自身が宇佐美長官に質問を発した。
「正田家はキリスト教と聞いていますが、皇室は神道です。この関係はどうですか?」
これは重大な質問だった。
皇室は代々、神道を奉じている。その皇室において、将来天皇となるべき皇太子殿下のお妃に
クリスチャンの娘がなれるのだろうか。
場合によったら、この婚姻は破談になる。
国民のほとんどは知らなかったが、正田家はクリスチャンの家庭だったのである。
▽皇室会議で問われた「正田家とキリスト教」!A
正田家の家系は古い。江戸時代に徳川家康の命令で群馬県館林に移住した。
はじめ米穀商、のち醤油醸造業。美智子さまの曾祖父・作次郎さんは二男だったので分家し、
横浜で外国枚の輸入業をはじめた。ローマ字表記の創始者として知られているヘボン博士から
英語を学んだといわれている。
祖父の貞一郎さんはその長男。上京して三田の英語塾に学び、外交官を目指していたが、
遠縁のきぬさんと結婚し家業を継いだ。日清製粉の創始者である。
正田家をよく知る皇室記者は、
「この貞一郎さんときぬさんは、夫婦そろってクリスチャンだったんですよ。きぬさんは
亡くなりましたが、葬儀は東京・四谷のイグナチオ教会で行われています」
母・富美子さんは佐賀県の旧家・副島家の出。父親が江商上海支店長時代に上海で生まれた。
上海高女に入り、大正12年に東京に戻って双葉高女を卒業。昭和4年、正田英三郎さんと結婚した。
生前の富美子さんを知る人は、
「結婚して間もなく、約1年間、ご夫妻はドイツを中心にヨーロッパで暮らしているんです。
長男の巌さんはベルリンの病院で生まれました。
日本では赤ん坊が泣けばお乳をやる。ところが、ドイツの看護婦はどんなに泣いても
決めた時間にしか与えない。
帰国後の富美子さんは、お姑さんに反対されながらも、この時間授乳を守りつづけたそうです」
帰国後間もなく建てた五反田の正田邸は、西洋風の2階建て。
「西洋式のいいところは積極的に取り入れていましたね。
当時の正田家では夕食後、家族全員が居間に集まって、だんらんのひとときを過ごしていました。
みんなが自由に発言するんです。富美子さんは“いちばん小さな子に1票を行使させるのよ”
と言ってました」(富美子さんの知人)
▽皇室会議で問われた「正田家とキリスト教」!B
富美子さんは美智子さまのご婚約後、新聞のインタビューに対してこう答えたことがあった。
「皇室は尊敬しますが、“神様”とは決して思わない教育を、戦前から私たちはしてきました」
戦前、天皇は"現人神"であり、それに反する者は不敬罪で処罰された。
富美子さんはこうも言っている。
「皇太子という身分、地位は私のほうとしてはマイナスの条件としか考えられなかったのです」
美智子さまはこうした家庭と、開かれた精神的雰囲気のなかで生まれ育ったのである。
その美智子さまが明仁親王と軽井沢のテニスコートで初めての出会いをされたのは、この前の年の夏。
それから1年3カ月余り。さまざまな紆余曲折があった。
<えっ!民間人の娘が皇太子妃に?>
<畏れ多い。辞退すべきだ>
正田家を取り巻くごうごうたる非難の声。
一般国民の間だけではなかった。
宮中にはもっと強い反対の声があがった。
昭和天皇の侍従長だった入江相政さんの日記が後になって出版されたが、昭和33年10月11日付で
こんな記述がある。
《東宮様の御縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで皇后様(現皇太后さま)が
勢津君様(秩父宮妃)と喜久君様(高松宮妃)を招んでお訴えになった由》
明仁親王の大叔母である旧梨本宮妃伊都子さんの日記も公刊されているが、ご婚約当日にはこう書かれている。
《(ラジオもテレビも)もうもう朝からご婚約発表で埋めつくし、憤慨したりなさけなく思ったり、色々。
日本はもうだめだと考えた》
そして和歌一首。
あまりにもかけはなれたるはなしなり吾日の本も光おちけり
こうしたなかで開かれた皇室会議であり、発せられた質問だったのである。
▽皇室会議で問われた「正田家とキリスト教」!C
宇佐美長官はこう答えた。
「たしかに正田家はクリスチャンで、美智子嬢の学校もカソリックですが、美智子嬢は洗礼を受けていません。
宗教的な問題があるとするのは、世間の思い過ごしで、そのような心配は少しもありません」
問題とされたのは、この一点だけだった。
「では採決いたします。この婚姻に賛成の方はご起立願います」
秩父宮妃と高松宮殿下が真っ先に立ち、10人全員が起立した。美智子さまが皇太子妃に決定した瞬間である。
当時を知る皇室記者の声。
「キリスト教だから反対だという声は、宮中から出ていたわけではありません。が、国民とマスコミは、
宮中のあまりにも強い反対を聞いて、そこまで憶測していたんです。それでこのご縁談の世話役だった
小泉信三東宮参与(元慶応義塾長)が、後で問題にならないように、皇室会議での質疑応答を要請したのだと思います。
ここでクリアされたため、美智子さまとキリスト教の関連は、その後まったく問題にされずにきましたからね。
しかしー」と言葉を継ぐ。
「ご結婚後、美智子さまの書斎は奥の2階にありましたが、シュバイツァー全集や童話の本、英文学の研究書
などが並んでいる立派な書棚に何冊かの聖書が置いてあったそうです。これは当時の側近から聞いた話です」
美智子さまの書棚に聖書が置いてあったというこの意外さ…。
「伝えられているあの中傷といじめのなかで、おそらく美智子さまはひそかに聖書をひもとかれたのでは
ないでしょうか。皇太子殿下への愛と、そして"信じるもの”に支えられた日々だったのだと思います」(同皇室記者)
封印された聖書のなかに秘められた愛と慈しみ。
「そういえば、阪神・淡路大震災の時、陛下とご一緒に被災者のお見舞いをなさいましたが」
と被災した主婦が涙を浮かべて言っていた。
「皇后さまはジャンパーとスラックスのお姿で、体育館の冷たい床にお膝をつかれ、お年寄りの手を取って
おられましたが、私はマザー・テレサを思い出しました。あれが皇后さまの本当のお姿だったのではないでしょうか」
155 :
朝まで名無しさん:2012/03/07(水) 20:51:59.65 ID:bxXNB2Vb
>>136 ここは昼間は断定的なレスが多いけど
時間帯によってはまだ議論できないこともない
>>83さんは
>>92にレスつけてくれないのかなあ
実際聞いてるようだし結構重要なんだけど
皇后美智子さま「愛と慈しみ」の40年―陛下とともに歩まれた心の旅路
<美智子さまと封印された聖書>
▽母・富美子さんの知られざる「臨終洗礼」!@
昭和34年4月10日。歴史に残る40年前のご成婚のあの日。
十二単の美智子さまは、神道による"ご結婚の儀”をすませた後、ローブ・デコルテにお召し替えになり、
“朝見の儀”に臨んでから、パレードの馬車にお乗りになった。6頭立ての華やかな儀装馬車。
右側に皇太子殿下(現天皇陛下)、左側に美智子さま。キラキラとティアラが輝く。
皇居から渋谷・常盤松の東宮仮御所まで、沿道を埋めつくした群衆は73万人。
米空軍、消防庁鼓笛隊のマーチ。日の丸の小旗の波。花火が上がり、ハトが飛び、紙吹雪が舞う。
そのなかで、パレードが青山学院大学の角を曲がろうとする時、群衆をおどろかせる慶祝のハプニングが起こった。
皇室の結婚だというのに、とつぜんハレルヤコールが響きわたったのである。
? ハーレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ…
「あの合唱のキューは私が出したんですよ」
と文化女子大学教授の渡辺みどりさん。当時は日本テレビの駆け出しディレクターをつとめていたという。
「美智子さまのお顔を、どうしたらできるだけ長くこちらに振り向かせることができるか?
各テレビ局がみな秘策を練っていたんですが、うちは青山学院大学のグリークラブ70人に、
ハレルヤの大合唱をしてもらったんです」
合唱が響き渡ると、美智子さまはハッとしたようにこちらをお向きになった。もちろん皇太子殿下も。
「45秒もの輝く笑顔でした。まるで、むきたてのゆで卵のようにみずみずしく、新鮮な風が吹いて
いるようでした。
なぜ、ハレルヤを選んだのか。
私は入社間もないころでしたから、くわしくは知らなかったんですが、上司とグリークラブの話し合いで
そうなったのだと思います」
ローブ・デコルテの美智子さまにふさわしい曲だった。が、それだけでなく、ミッションスクールの
雙葉学園から聖心女子大学を経てきた美智子さまの経歴が自然にこの曲に結びついたのかもしれない。
▽母・富美子さんの知られざる「臨終洗礼」!A
この朝、美智子さまがご実家の正田家を出たのは午前6時20分。
母・富美子さんと美智子さまは、万感胸に迫って言葉をかわすこともできず、ただジッと目を見合わせた。
この時、美智子さま24歳、富美子さん49歳。
これより少し前、美智子さまのお妃決定発表があった時、軽井沢の正田家別荘で、富美子さは親しい新聞
記者に向かって、
「とうとう大きな渦の中に巻きこまれてしまいました」
と言って大きなため息をついたという。
《一般家庭の娘が宮中に入って、伝統の重み、複雑な習慣、入り組んだ人間関係に、はたして耐えていける
のだろうか…》
ぬぐいきれぬ不安のなかで、美智子さまを宮中へ送り出した富美子さん。
その時、お妃教育に通いつづけていた美智子さまは、こんな歌をお詠みになった。
やがて子をおくらむ心持てばこそ我に背むけてよもぎ摘む母
宮中での美智子さまの日々は、予想していたとおり、針のムシロであり茨の道だった。
いくら皇太子殿下の愛といたわりがあったとしても…。
世に伝えられている“美智子妃いじめ”の数々は、氷山の一角にすぎないと言われる。
それは直接、間接に富美子さんに返ってきた。
"マナーを知らないお妃。母親はいったいどんな教育をしていたのか”
上海で生まれ育ち、国際的な雰囲気と近代的な生活感覚を身につけてきた富美子さんを、
一部の人たちは毛嫌いして"上海夫人”と侮蔑をこめて呼んだ。
しかし、何か言えば、それがみな娘へのいじめとなって返ってくる。ただジッと耐えるよりなかった…。
▽母・富美子さんの知られざる「臨終洗礼」!B
「こんなに辛い母親の立場はなかったと思いますよ」と当時を知る正田家の知人。
「里帰りなんかめったに許されない。御所に上がって会いに行くにも限度がある。
ですから富美子さんは、美智子さまがお出かけになる先へ行って、人込みにまぎれて
美智子さまの姿を見ては、寂しさをまぎらわせていたんです」
皇太子ご夫妻の年に1度の大相撲観戦の日は、絶好の母娘対面の日であったという。
「富美子さんはロイヤルボックスの向かいの升席を苦心して確保しておくんです。
ご夫妻がボックスにつかれた後、東宮侍従が気をきかせて、“お母さまがいらっしゃるそう
です”と知らせてくれる。そうすると美智子さまがパッと顔を輝かせてお母さまをおさがしになる。
遠くから見つめ合うだけですが、富美子さんはどんなにうれしかったことか。
こういうことが何度もあったそうです」
昭和53年の歌会始のお題は「母」であったが、この時68歳になっていた母・富美子さんを
美智子さまはこうお詠みになった。
子に告げぬ哀しみもあらむを柞葉の母清やかに老い給いけり
それから10年後、体調を崩して入退院を繰り返していた富美子さんは、ついに重体に陥った。
入院先は東京・築地の聖路加国際病院。
この病院は、明治時代にイギリス教会系のアメリカ・エピスコパル宣教団によって創設された
ミッション・ホスピタルであることは知られている。現在でも病棟と礼拝堂と看護学校のあるブロックの
中心部は、ノートルダム聖堂を模した塔の上に十字架が立っている。
昭和63年5月28日深夜。
1年余りの闘病の末、ついに富美子さんは帰らぬ人となった。腎不全。行年78歳。
その死に先だって、富美子さんは、臨終洗礼を受けていた。
臨終洗礼とは、死に臨んでキリスト教の洗礼を受けることをいう。神の子として天に召されるための
入信の儀式だ。
その臨終洗礼は、美智子さまご本人がなさったと、元東宮関係者は証言するが、
「それは事実と違う」というのは四谷の聖イグナチオ協会、粟本昭夫神父だ。
「美智子さまは臨終洗礼に立ちあっていらっしゃいません。
正田富美子さんの洗礼は私がいたしました」
▽母・富美子さんの知られざる「臨終洗礼」!C
粟本神父の証言によれば、
「亡くなられる2,3ヶ月ほど前でした。前々からそのご意向をうかがっていましたので、
ご入院中の聖路加病院にお見舞いにうかがった折に、私が洗礼いたしました。
私は15年ほど前に安西美恵子さんの洗礼をしておりますので、そのご縁からご依頼を受けたと思います」
洗礼名は"マグダレナ・ソフィア”。
この名前は聖心女子大にゆかりが深い。聖心女子学院(大正4年創立)、聖心女子大(昭和23年創立)の
設立母体である聖心会がフランスで創られたのが1800年。その創立者が聖マグダレナ・ソフィア・バラだった。
富美子さんはその洗礼名を受け、心満ち足りて天に召されていったのだった。粟本神父は強調する。
「洗礼の時、病室にいらしたのは、安西恵美子さんと正田泰子さん(弟嫁)、富美子さんと私の4人だけです。
皇后さまが臨終洗礼をされたということは、全く事実ではありません。お立場からもありえないことなので、
あえて私が事実を申し上げました」
富美子さんが神の国へ召されていったのは、それから2,3カ月後のこと。危篤の知らせを受けて
美智子さまは、礼宮さま(秋篠宮さま)と紀宮さまを伴って、病院に駆けつけられた。
「安らかな、静かな最期でした」
美智子さまはそうおっしゃって、医師や看護婦の一人一人に、お礼の言葉を述べられたという。
皇后美智子さま「愛と慈しみ」の40年―陛下とともに歩まれた心の旅路
<美智子さまと封印された聖書>
▽美智子さまを襲った「流産」と「聖書事件」!@
「正田家はクリスチャンの家庭だが、ご本人は洗礼を受けてはいない」
このことでクリアされていた皇太子妃の資格。
だが、後になって"聖書事件”というのが世に伝えられ、国民を愕然とさせた。
あの温厚な昭和天皇が美智子さまに向かって、
「皇室は神道なのだから、キリスト教は持ちこまないでほしい」
と激怒なさったというのだ。
いったい何があったのか?
それが起こったのは、昭和37年ごろと推定されるが、そのころは皇太子殿下(現天皇陛下)の
弟宮・義宮さま(現常陸宮さま)のお妃選びが盛りあがっている時だった。
「美智子さまの例にならって義宮さまのお妃も、民間からの候補者が挙がっていたんですよ」
と旧華族夫人。
「そのころの義宮さまは、侍従だった村井長正さんが無教会派のクリスチャンだった関係で、
影響を受けていたっしゃるということでした。目白にある学習院の清明寮(学生寮)に寄宿なさって
いましたが、おやすみになる時もベッドで、“父と子と聖霊の御名によりて…”とお祈りを
なさっていたという噂が流布されたのです」
事件はこの義宮さまを介して起こったという。
全貌は長い間秘められていたが、10年ほどたって作家・藤島泰輔氏によって明らかにされた。
藤島氏は皇太子殿下の学友で、殿下をモデルにした小説『孤独の人』でデビュー。旧皇族、華族、
常盤会に特殊な情報ルートを持つ人とみられていた。
雑誌『流動』(昭和46年10月号)の座談会でこう語ったのである。
「たまたま常陸宮さんが両陛下と食事をされたときに、美智子さんが(皇室へ)へはいってきてくれた
おかげで、キリスト教の話ができるようになって非常にうれしいというようなことを…常陸宮さんは
たいへん率直な人ですから、つるっと言っちゃったらしいんです。
▽美智子さまを襲った「流産」と「聖書事件」!A
そうしたら天皇陛下が激怒されて、そこへ美智子さんをお呼びつけになって、
“二度とふたたび皇室の中でキリスト教の話をしないでくれ”と言われた。
この話は天皇さんにかなり近い人からうかがったんですけれど、
あんなに怒られた天皇は戦後初めてだといっていました」
美智子さまが皇室に嫁いで3年目の昭和37年。
浩宮さま(現皇太子さま)がお生まれになってかわいいさかり。
「地方などにお出かけになって、お帰りになると、お留守中の浩宮さまのご様子を報告するために
よくお部屋へうかがったものです」
と元東宮侍従の浜尾実さん。
「その折、他にどなたもおいでにならない時に限ってですが、美智子さまは聖書のこと、
キリスト教のことをお聞きになりました」
浜尾さんもクリスチャンである。
「美智子さまは双葉、聖心と一貫してキリスト教系の学校で学ばれ、宗教は必須学科でしたから、
キリスト教についての知識は十分にお持ちでしたが、あくまでも表では秘めておいででした。
よく本もお貸ししましたよ。たとえば『アッシジのフランシスコ伝』とか『聖女テレジア伝』とか
『フランシスコ・ザビエル伝』などです。美智子さまが欲しい本は、たいてい女官を通じてお買いに
なるのですが、やはりキリスト教の本はご遠慮なさったのでしょう」
その美智子さまと義宮さまが、キリスト教についての話を交わされて、昭和天皇が激怒なさったというのである。
前出の旧華族夫人は、
「それでやはり民間出身のお妃ではなくて、義宮さまのお妃は旧華族の津軽華子さまが選ばれたのです」
美智子さまのショックはどれほどであったろう。
だが、この事件は実際には起こっていなかったのだ。
それが明らかにされたのは藤島さんの話が出て、さらに6年後。
昭和52年に発行された皇室関係の本の中で、ある政治学者がまた聖書事件を話題にした。
これを目にとめられた昭和天皇が、入江侍従を通じて鈴木東宮大夫にこうお伝えになったのだという。
「このようなことは事実ではないばかりか、心に思ったことさえなかった。こういう問題が蒸し返されて
時々出てくるので、美智子がかわいそうなので念のために…」
▽美智子さまを襲った「流産」と「聖書事件」!B
つまり、この事件はもともと存在せず、噂だけがひとり歩きしていたのである。
皇室は決して排他的ではないし、浜尾さんによると宮内庁にはクリスチャンが多かったという。
「私自身、20才のクリスマスに洗礼を受けています。宮内庁入りする6年前のことだし、
宮内庁はすべて知ったうえで、私を入れたわけですから、クリスチャンであることはいっこうに
かまわなかったわけですね。
村井侍従もそうでしたし、田島道治宮内庁長官(のちのソニー会長)、三谷隆信侍従長、
前女官長の松村淑子さん、現女官長の井上和子さん、みなクリスチャンです。
美智子さまのご結婚を推進なさった東宮参与の小泉信三さんも、臨終洗礼をお受けになったと聞いています。
私の弟・浜尾伺郎は現在バチカン市国の大司教をしていますが、かつて天皇陛下にラテン語のご進講をしております」
ここまで開かれていた皇室で、なぜ”聖書事件”などが起こったのか?
「開かれたからこそ、一部の人たちは必死になって閉ざそうとしたんでしょう」と皇室記者。
「とりわけ美智子さまが入ってこられて、新しい風が吹き始めた。これではいかん、と。
宮中の古い部分が逆風となり、昭和天皇のお名前を持ち出して聖書事件の竜巻を起こしたんです」
その犠牲になった美智子さま。疑いが晴れたのは16年もたってからである。
それまでの長い忍従。とくに噂の流布した直後の迫害はどれほどであったことか。
美智子さまの"異常妊娠”が宮内庁から発表されたのは、噂が流れて間もなく昭和38年のことだった。
病名は胞状奇胎。心身の極度のストレスが原因になることがあるといわれている。
ただちに流産の処置がとられ、宮内庁病院から退院して東宮御所でご静養に入られた。予定は1ヵ月。
だが、いつまでたっても回復のきざしは見えない。体重は10`も減少。
昭和38年4月17日の夜。美智子さまはお車でひっそりと葉山御用邸に転地療養に向かわれた。
3歳の浩宮さまの手をお放しになり、支えてくださる皇太子殿下ともお別れになって…。