雅子妃】皇室における東宮問題を語りつくす【小和田家】★44
週刊誌レポ。詳細は各自ご確認ください。
週刊朝日 [2011年5月13日号]平成の天皇DNAをたどる旅−昭和天皇生誕110年1/3
・昭和天皇に仕えた5人の回想を永井貴子記者が構成した5頁の記事。
1.元宮内庁総務課長、齊藤正治氏「伊豆大島で被災島民と直接話さなかった理由」
・床に膝を付き被災者の手を握りしめるその姿は平成の天皇・皇后の象徴だとも言われていて、昭和天皇がお見舞いするお姿とは違いを感じる。
・'87(S62)年6月に三原山噴火の被災地伊豆大島を訪問した昭和天皇は、町長や職員に直に話をしたが、
説明役との会話の中でのねぎらう言葉以外は島民に直接声を掛けることはなかった。
平成の両陛下のような場面は想像も付かないので、私たちが(直接会話の)時間を予定に組み込むこともなかった。
・平素から「日本人に握手の習慣はない」とおっしゃっていた昭和天皇は
一見すると冷たい印象を持たれるかもしれないが、大島の島民はただただ涙を浮かべていた。
・「象徴という存在の天皇がどうあるべきか」に対する答えは大変難しい。
・'69(S44)年から32年間昭和の両陛下に仕えた卜部亮吾(うらべりょうご)侍従は
「天皇は人気商売ではない」と常日頃口にしていたし、私自身も、象徴天皇の実像を国民に理解してもらうことは重要だが、
それが単なるポピュリズムに陥ることは天皇の地位にふさわしくないと考えていた。
週刊朝日 [2011年5月13日号]平成の天皇DNAをたどる旅−昭和天皇生誕110年2/3
・昭和天皇は国民への思いをお持ちの上でお立場がどうあるべきかを長い時間考え抜かれた上で行動に出されていたはず。
・一方、昭和天皇の時代を知る職員の中には、今の両陛下は国民に近づきすぎだと心に思う人もいるかもしれない。
今の両陛下は、いろいろな見方や意見があることを受け止めた上で今の皇室像を築き上げてきたのだろう。
・昭和天皇は努めて感情を表に出さない方だったが、ふとしたときに人間くささをお出しになる、として「チョッちゃん」にまつわるエピソード紹介。
・ある午餐の席である総理が昭和天皇に「陛下が今までにお会いになった歴代総理の中で印象の強い方はどなたか?」と尋ねる。
人の優劣を測るような質問を陛下になさったのはおそらくこの総理が初めて。昭和天皇は「○○は、たばこをよく吸ったなぁ」
〆は昭和天皇は座談の名手だったが、陛下の言葉はやはり重く、思わぬところで内容がふくれあがり影響を及ぼすことも。
だから会話の返事にはたいそう気を使われていた。
週刊朝日 [2011年5月13日号]平成の天皇DNAをたどる旅−昭和天皇生誕110年3/4
2.元宮内庁御用掛・岡野弘彦氏「最後まで表現にこだわった終戦の感想を詠んだ和歌」
・'88(S63)年9月19日、午後9時50分。大量吐血された昭和天皇は緊急輸血という事態に。111日間の闘病生活が始まる。
・それからまもなく(教授を務めていた)國學院大学理事室に徳川義寛侍従長が訪ねてくる。
43年前(S20)に詠んだ《爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも》の表現を陛下がきちんと決めておきたいとのこと。
・御製は、いつも徳川氏が毛筆に和紙で清書して持ってくるが、その時は便箋に書かれたままで、
ご自身のぐっと強い筆跡で何度も推敲した跡が見てとれた。
・一番胸にすっときた《身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて》を選び丸を付けたところ、
徳川氏が「ああ、これでお上も安心なさいます」と言って帰って行った。やはり自分が大事にしている表現に対して、人は最後まで執着するもの。
・和歌は「この表現以外にない」と言葉が動かなくなるまで心を集中し、推敲を深めて作るもの。
迷いがあるときの和歌は読み手にすっと入ってこない、として'87(S62)年8月15日に向けて詠まれた靖国神社の歌のエピソード紹介。
・安珍清姫伝説の残る日高川をご覧になった昭和天皇が「日高川という題で和歌を作ってみたらどうだい」とそばの者におっしゃった。
今も地方に天皇が行かれるとその土地の川や山の名を詠み込んだ和歌を作られるが、それはその土地に暮らす人々の生活への祝福を意味する。
週刊朝日 [2011年5月13日号]平成の天皇DNAをたどる旅−昭和天皇生誕110年4/4
・折々の機会に国民の思いや、こうあるべきだという考えを伝統的な和歌の形で表現して発表されるのは
日本文学研究家の故E.G.サイデンステッカー氏がうらやんだように大変な文化国家だと思う。
・平成の両陛下も歌を詠み、平和への祈りを捧げながら、死者の魂の鎮めをひたすらに心がけておられる。
そういった積み重ねが、心ある人や郷土の中で生きてきた人たちに染み通り、日本人の心を穏やかにしてきた。
・昭和天皇は新年に向けた思いを毎年8首の歌に詠んだが、新聞が2首に削ってしまうため
「入江(相政・侍従長)、なぜ2首なのだ。8首渡したではないか」。厳しい方なのではじめの頃はそうおっしゃっていたそう。
〆は今年はこんな天変地異があったが、来年はよい年でありますように。
そんな思いを国の象徴である天皇陛下が伝統的な和歌の形で詠み出される。
東日本震災の被災者にもその思いは必ず届くはず。
ここまででおよそ前半。後半はまたのちほど。