【両陛下】皇室の行方【東宮】

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76朝まで名無しさん
33年 11月 皇太子明仁親王 婚約
34年  4月         結婚
34年  7月 美智子妃 懐妊の兆候を認める

35年  2月23日 第一子 徳仁親王出産
     (計算だと 妊娠第1週は34年6月半ば)

37年〜38年 美智子妃にたいする協定やぶりの 雑誌報道が相次ぐ
    特にショックだったのが 連載小説「美智子さま」小山いと子作 と言われている ※2

   1961年(昭和36年)1月号から、雑誌『平凡』に小説「美智子さま」を連載していたが、
   1963年(昭和38年)3月11日、宮内庁は発行元の平凡出版に対して、この小説の連載中止を申し入れた。
    内容については ここにさわりだけ ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1324548313
77朝まで名無しさん:2010/11/27(土) 01:08:29 ID:K4uVKBJM
38年 3月4日 美智子妃 第二子懐妊発表  ※3
    3月23日 胞状奇胎による流産措置手術
    4月〜6月 葉山御用邸にて一人で静養
    7月〜8月 徳仁親王とともに軽井沢プリンスや正田家別荘にて静養
    9月 1日 帰宅
    9月13日 公務復帰

39年 2月 義仁親王 津軽華子嬢とお見合い ※4
    4月 婚約
    9月30日 結婚

40年 8月9日号 による女性自身の記事掲載 >>44 
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/news2/1290405244/44
 (8月9日号 ならば実発売日は7月26日 記事編集はギリギリでも 6月〜7月初旬と考えられる)
記事が編集されていたのは礼仁親王を妊娠5〜6ケ月のころ

40年 11月30日 第ニ子 文仁親王出産 ※5
   (計算だと 妊娠第1週は40年2月末
    胞状奇胎による流産施術から1年11ケ月)  

44年 4月   第三子 清子内親王出産

46年 9月 宮中聖書事件が表ざたになる ※6
78朝まで名無しさん:2010/11/27(土) 01:10:17 ID:K4uVKBJM
で1〜6までの※についての雑感ね。

※1
聖心となんの関係ない人間なんで その世界同窓会ってのがどんなもんだか知らないが
今年の世界大会は 4月6日〜9日までのたった3日間です。 世界旅行となんの関係もない。
ビザの自由化は39年。 それまでは単なる海外旅行目的では(敗戦国日本人には)ビザは下りなかった。 

でもなぜか34年時点で美智子嬢は2月間も欧米を旅行できている 自由自在に世界中のビザが下りたということです。
いくら正田家が お金持ちとはいえ一民間人の両親の思惑で自由に海外なんていけるんか?

  ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413826969
   >観光目的での外貨の持ち出しは年間500米ドルまでに制限され、この範囲内で滞在費をまかなわねばなりませんでした。
500米ドル 1ドル360円として18万円 この18万で移動費含め 2月間も贅沢な旅行ができたのか? という素朴な疑問。
  (できっこない これは正田家が金持ちとか貧乏という問題ではなくて パンピーは外貨を持ち出せなかったんですから)


この同窓会自体 美智子嬢のために企画されたものという感じがします。
観光が自由化されていない当時 合法的に国外に出るため清心が一肌脱ぎ 世界同窓会というものをでっち上げたと推測。
  (AMASC(世界聖心同窓会)のHPによれば 世界大会の第1回はなぜかその6年後の1965年(昭和40年)になってる)
世間的には 美智子嬢はプロポーズから逃げるために海外旅行をしていたことになっていますが 現実には違うんだろう。
ただ大学の同窓会に出席するだけの敗戦国のネエちゃんにここまでの優遇措置を取るわきゃない。
美智子嬢との婚約にはアメリカが絶対主導権をにぎっています。 この流れをみただけで ここは断言できる。

聖心の卒業時に堅信礼をうけなかったことといい 在学中すでに婚約が内定していたのではないか、という気も?
美智子嬢は 婚約する代わりに 当時自由にならなかった 世界旅行をプレレントw された、と私は取りました。
贅沢な世界旅行をエサに釣られた というなら 雅子とそう変わらない脳みそということにも?

旧皇族華族が美智子嬢に極端に冷たかったのも 上記のようなことを知っていたからの可能性も?
79朝まで名無しさん:2010/11/27(土) 01:16:47 ID:K4uVKBJM
※2
2年も前から連載していた小説になぜ急に連載休止を申し入れたるのか?
(読んでいないので判らないけど)初夜のシーンが書かれたのがショックだったということな訳なんで
独身時代のことを書かれるのは問題なかったんでしょう。

作家が作品を書くにあたり 子供時代のことも取材しているのは確かなので
美智子さまの子供時代を彼女の周辺の人間に取材はしていたはず。

美智子様は連載を毎月読んでいたし 独身時代のことを書かれるのは 平気だった。
独時代の友人知人を取材するのは平気だったが 入内以後のことは書かれたくなかった。
初夜のシーンまで書かれていたことにショック=作家の取材力を甘く見ていたのでは?
初夜のシーンを知ってる人間はごく間近の女官等に限られるので。
今勤めている人間がリークするとは考えにくいので 
美智子妃には誰がリークしたのか想像がついたはず。(自分がクビにした女官等)

つまり独時代のことは彼女にとって都合わるくなかった。被取材者が美智子妃に都合悪いことは一切喋っていない。
でも 入内後のこれからは 何が書かれるか判らない → 恐怖
 ↓
時期的にたまたま流産と重なった(これは本当に偶然だと思う)
病気になると 都合の悪い記事をとめることができる、と学習 → その後はご承知のとおり。

80朝まで名無しさん:2010/11/27(土) 01:20:21 ID:K4uVKBJM
※3
これによると 胞状奇胎の経過と措置は
ttp://www.ladys-home.ne.jp/faqsite/ans-files/FAQ-J/FAQ-J8.html

  胞状奇胎はいわば絨毛癌へ移行する前癌状態なので 分娩まで持っていくというのは非常に危険なことであり、
  よほどの事情でもない限りはまず処置をしてきちんとした管理を受け、完治したということを確認した上で次の妊娠に期待するのが通常。

治療の第一は子宮内掻爬をすること。 掻爬後にまた5〜7日ほど日にちをあけて再掻爬を行う。
HCGが減少し通常の非妊娠レベルまで低下するはずだから、以後はこのHCGを追いかけることで胞状奇胎後の管理を行うことになる。
これに従ってHCG量が低下している場合には経過順調と考えて良い。
   ↑
美智子妃の場合はこれであったことになりますね。
(その後50年生きているし 次子も出産できているし 子宮は健康なまま温存できた)

一旦低下したHCG量が再増加したり、順調に減少してこない場合には侵入性奇胎の可能性、ないしは絨毛癌への移行を考慮して、
 a)子宮全摘    b)抗ガン剤を用いた治療  となる。
昭和30年代当時 まともな抗がん剤などあるわけもなく あの当時ならば もし再発の場合は子宮全摘出でしょう。

経過が順調である場合には、2〜4週間ごとの通院により管理を行います。
 もしも再発した場合、もしくは絨毛癌が発生した場合には再びHCGの分泌が盛んになるので妊娠反応が出るようになる。

奇胎後の管理中に新たに妊娠してしまったらどうなるのか? 再発したのか新たに妊娠したのかの区別が付かなくなってしまう。
 よって、「大丈夫」という判断が降りるまでは 妊娠厳禁 という指導がされる。
おおむね6ヶ月〜2年間くらいの避妊を言い渡されることが多い。その間は先述のように2〜4週間ごとに通院するようにする。
81朝まで名無しさん:2010/11/27(土) 01:22:13 ID:K4uVKBJM
ということで 懐妊発表が3月初旬ということは 徳仁の前例に習えば 妊娠したのは2月中旬

流産措置が3月23日なら 3月末にもう一度くらい手術をしているはず。
その後 葉山御用邸で 3ケ月の静養(念をいれ 再々々手術もしているはず)
葉山御用邸に手術の設備があったのかどうか?

さらにあまり知られていないが その後もさらに2ケ月の静養をしている。 合計5ヶ月。
流産の措置後としては ちょっと長すぎるようにも思うのだけど? どう思う?

1・精神が壊れた(たかだか一度流産したくらいで 大ゲサ過ぎないか?)
2・もっと重篤な疾病を抱え込んでしまった
(手術も大きくなるし 精神も流産とは比較にならないほど壊れる)
82朝まで名無しさん:2010/11/27(土) 01:25:01 ID:K4uVKBJM
あー 長い。ごめんな。あとちょっとなんで。

※4 
昭和40年のあの記事で気になったのは
皇太子(当時)が弟宮の婚約にツンボ桟敷だった、という点。
皇太子が弟宮の婚約チャチャをいれてくることが予測されるので ツンボ桟敷にした、と取れます。

華子嬢は 出自人柄知性健康 申し分のない方なのは確か。
にもかかわら華子嬢が旧華族出身だから、という理由だけで  
皇太子が(華子嬢の人柄無視で)この縁組を壊してくる恐れがあった。

つまりこれは美智子妃の介入を嫌ったということの裏返しです。
皇太子はこのころ 弟宮の婚約に口を挟んでくるほど美智子妃に完璧にコントロールされていた、と取れます。
(なぜそこまでコントロールされてしまったのかは不明 流産事件が緒を引いている?)
一般に自分の婚約にあたり 母親をツンボ桟敷にするほどの家族間のつながりを希薄に捕らえている人間が
弟の結婚に興味を持つことはありえません
(パンピの私にしたって 兄の結婚など正直どうでも良かった。
   でも息子の結婚には色々言いたいだろうと思う。そんなもんでしょ)

さらにこれでわかる事。
弟宮の結婚に介入できなかったことを恨みがましく思っていた 今上夫妻が
日嗣の皇子であるわが子長男の結婚に介入しなかった訳がない。



83朝まで名無しさん:2010/11/27(土) 01:27:13 ID:K4uVKBJM
書き忘れた その週刊誌記事が本当なのかチェックが必要。
つられただけの可能性もある。

※5
流産処置から文仁親王妊娠まで1年11月です (2年に満たない)
文仁親王懐妊時は 徳仁親王はちょうど5歳の誕生を迎えたとき。
徳仁親王が(軽度の)アレレであることが確定した時期と(私は)推測します。
つまり 長男がアレレであることが発覚し なにがなんでも第二子の必要性が
(血統の予備+アレレの長男を補佐する者として)表出した時期と考えてもおかしくはないと思います。

流産により一時はかなり精神的に追い込まれていたときがあったことはわかりますが
無事第二子を懐妊し 安定期に入り 幸福に包まれていただろうに
  >皇室の民主化の象徴である美智子妃がやせ細り、病気がちになった事実は何を物語るのか。
  >美智子妃が入られた皇室はイバラの世界であった。
なぜこのような恨みつらみを載せた記事をあえてこの時期に掲載しなければならなかったのか。

なぜ1年11月なんて微妙な月数で次の懐妊を決意されたのでしょうか?
実は流産後 すでに1年かそこらで次子懐妊OKのGOサインがでていて
次ぎの妊娠まで11ヶ月掛かっただけのこと ととらえるのが普通だとは思いますが・・・


懐妊の発表は長男の例にならえば 40年の 3月からから 遅くとも4月の初旬には行われているはず。
それにこの時期 美智子妃の大きなおなかをした映像がのこっているかどうか?
安定期の夏の時期 公務をどのくらいしているか。 公務の写真があるかどうか。
ここは要チェックですね。
84朝まで名無しさん:2010/11/27(土) 01:33:40 ID:K4uVKBJM
ふう これで最後です。

※6
雑誌『流動』(1971年10月号)の座談会で、作家で皇太子(今上天皇)の学友であった藤島泰輔は語った・・・以下略
(藤島によると入内数年後のことか。 浩宮出産後 第二子流産までの美智子妃絶好調の時期と合致

 この事件はでっち上げとの噂もあるが 本当にあった事件だろうと私は推察しました。
 
 男児を無事あげて 絶好調だった美智子様が調子ぶっこいて 聖書の講義を義弟におっぱじめた。
    (目的はもちろん 義弟の結婚相手をクリスチャン=聖心後輩?にするため? 
            → 昭和帝にばれて大失敗)

 美智子妃入内後 ツンボ桟敷におかれた華子妃以外の二人
 三笠兄弟の信子妃・久子妃がともに聖心出身なのをご存知か?

 美智子様の意向は 妃は学習院以外から というのを通り越して
 聖心学閥で固めたい、という強い意思を感じちゃうんですよね。あたしは。 

そして 3番目の妃が学習院の紀子妃です。