>>8-9 >公理には疑いようのないアプリオリと疑う余地のあるアポステリオリがある。
あなたの公理の定義は全然違いますね。公理の定義は、哲学書にはこう書いてあります。
>公理を定義する
>公理とはある種の合理的体系において特殊な前提となる命題のことです。
>公理は出発点となる正当化を必要としない主張という身分を持ちます。
>公理は理論体系の基盤であり、体系の残りの部分は、この基盤からさまざまな演繹的推論によって導出されます。
>理想を言えば、理性を持つ者がその使用に異論を差し挟むことのあり得ないような命題が公理とされるべきでしょう。
――抜粋:ジュリアン=バッジーニ・ピーター=フォスル 共著 『哲学の道具箱』 26頁
>キミのいう皇室云々は疑う余地のあるアポステリオリに過ぎない。
ですから、何度も言っているように、デーモン仮説・不完全性定理をかんがみれば、どんな主張だって「疑う余地のある」主張なのです。した
がって、私の主張も、あなたの主張も、アインシュタイン、アリストテレス、ダーウィンたちの主張も、全て「疑う余地がある」のです。したがっ
て、あなたの主張だって「疑う余地のあるアポステリオリ」に過ぎない。「疑う余地のあるアポステリオリに過ぎない」ことを理由に私の主張を否
定するならば、あなたの主張だって、否定されねばならないでしょう。
>君の主張を噛み砕いて言えば、疑えばきりがないから、定説になってることは一応信じるべき
私の主張はそんなものではありません。私の主張をきちんと解釈しきれないぐらいの日本語能力しかないから、
天皇陛下の主張もきちんと解釈できないのですね。私が言っているのは、「どんな主張も、疑えばきりがないから、
文脈に応じて、疑う水準の変化させるべき」というものです。これを文脈主義といいます。
>キミは神道信者かもしれないけど、隣近所に聞いてみなよ。
>はい、と答える人間はおそらく一割もいない。
日本人は宗教に対して曖昧な態度をとってきた歴史的経緯があります。したがって、
「ある日本人が、神道信者であることを自覚していない」ということと、
「ある日本人が、神道信者でない」ということは、異なります。
>毎年クリスマスケーキを食べる人間をクリスチャンと定義すれば、若い女性はほぼ皆クリスチャンだわなあw
神道は多神教であり汎神論ですから、ゴッドも神道信者にとっては「八百万の神」の一員と位置づけられます。さらに、キリスト教信者の定義を
「クリスマスケーキを食べる人」としてしまうと、日本人のほとんどがキリスト教信者であり、欧米人のほとんどが、非キリスト教信者になってしま
います。なぜなら、欧米では、クリスマスケーキよりも、クリスマスプディングの方が一般的だからです。キリスト教信者の定義は、普通なら、「
洗礼を受けた人」とすべきでしょう。そんな基本的な教養も欠けているくせに、よくえらそうに書き込みができますね。
>試しに、隣近所に聞いてみなwあなたは皇室を日本の本質だと思いますか?
「多数の人が『皇室は日本の本質である』を支持していない」ということと、「『皇室は日本の本質である』は真理でない」ということは、論理的に
同値ではありません。したがって、あなたのおっしゃってるのは、「衆人に訴える論証」という詭弁の応用形ですね。
参考リンク:
http://ja.wikipedia.org/wiki/衆人に訴える論証