【雅子妃】皇室における東宮問題を語りつくす【小和田家】★7

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・'93,1月。皇室会議。皇太子夫妻の婚約が正式決定。その夜、赤坂御所で夕食会。
 出席者・・・小和田家・秋篠宮両殿下・常陸宮両殿下・池田厚子さんご夫妻・
 島津貴子さんご夫妻・正田家・川嶋家。高松宮・三笠宮家は招待されず。 
・招かれなかった皇族は3/17の納采の儀の日取りもマスコミ報道で初めて知った。
 三笠宮の長老が宮内庁に抗議→納采の儀は翌月に変更。
・昭和の時代、高松宮妃は""美智子妃いじめ"の中心とも言われ、その仕返し?なんて声も。(旧宮家関係者)
・この年にわかに巻き起こった非難の嵐はそんな皇室内の確執も大きな一因。
 だがそれは一部の皇族・保守勢力の不満の爆発だけではなかったのも事実。
浜尾氏が諌言を雑誌に寄稿したほか、朝日新聞、元・皇室記者の岸田秀夫氏は当時
「"美智子皇后バッシング"の原因は3年前、両陛下が高御座(御帳台)に上られたときから何らかの"変身"をなさったのでは」と厳しい指摘。
・老人ホーム慰問の時には膝を付いて目を合わせるなどされる両陛下だが、
(以下太字)平成になってお二人が何か遠い存在になったと感じる人も少なくなかったのである。
 (皇太子妃時代には毎年恒例になっていた単独(誕生日)会見が平成になってからは中止に)
7903/3:2009/04/14(火) 14:22:15 ID:sm3MMuTS
・そんなことから皇后になられてからの美智子さまの格式主義に疑問の声も少なくなかった。
・両陛下は平成皇室のあり方の一つとして、外国王室とのプライベートな交流を考えていた。
これはヨーロッパ訪問などの際、公式日程外に王室の離宮(別荘)などで過ごされた体験からの発想だったと言われる。
・事件から3年後、鎌倉節・新宮内庁長官は「戦後半世紀を経た今、これからの皇室は海外ではなく、
もっと国内に目を向けて頂きたい」と強く進言。
 それは両陛下の"外国王室との公私にわたる積極的な交流"の頓挫であり、雅子さんの悲劇を招く遠因となった。

〆は美智子さまは50年を「長く、時に険しく」と表現されたが、その道はまだまだ続く。