【雅子妃】皇室における東宮問題を語りつくす【小和田家】★7

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女性誌を読んできました。女性自身はレポが上がっていたのでURLを貼ります。
週刊女性は立ち読みでは覚えきれないと思ったので(渋々)買いました。

週刊女性4/28号
短期集中連載「美智子さま3大危機その2 バッシング? 宮中戦争? 『失われた声』の真相」

先週は'61の「聖書事件」'63の流産・葉山静養についてだったが、今週は'93の「失声症事件」について
・皇后様倒れる。この所感が発表されたのは当日の午前10時25分頃。
 祝賀行事出席のための支度を終え、今上・紀宮様と共に赤坂御所の談話室で待機中のこと。
 すぐに意識は回復。軽い昼食も取る。
 侍医の診断「特段別状はない。ただ努力しても言葉が出ない様子で体調を見守っている」
・美智子さまは'85頃から貧血や目眩が持病のようになっていたので今回もそれかと思っていた。(当時の宮内庁担当記者)
・じっさい夜には「23日からの香川・徳島国体には予定どおり出席」との発表。
・21日午後。精密検査。「器質的な異常は認められない。しかし強い悲しみを受けたとき
 一時的に言葉を発せられなくなることはあり得る」(金沢医務主管)
・精密検査後も"四国訪問"の予定に変更無し。しかし宮内庁に抗議の電話が殺到。
22日夕、藤森長官が赤坂御所で美智子さまに訪問中止を進言。
・美智子さまはなかなか受け入れず、説得は6時間近くに及び、深夜12時前になって「周囲に迷惑を掛けるなら」
 と書いた紙を(陛下に)見せて中止が決定(当時の宮内庁担当記者)
・強い悲しみとはいったい何だったのか。
・当時皇室の内外では美智子さまの「女帝ぶり」への様々な非難の嵐が吹き荒れ、一部のメディアでも報道されていた。
・皇太子妃時代の美智子さま関連の報道はほとんどが「礼賛」記事だったといっていい。
・皇室内で孤立状態だった美智子さまに大きな支えになっていたのも事実。
・「新聞・テレビはもちろん雑誌の記事すべてにも目を通していた。事実と違ったり、批判的なものもあって、
 たいそう気にされていたので、そういうチェックは辞めた方が、と申し上げたことも」(故・浜尾実氏)
・だが皇后になってからもその「チェック」は変わりなく続いていたようだ。

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