メモ4
http://www.diplo.jp/articles04/0410.html 南隣のグルジア領内でも、若き大統領サーカシヴィリが北部の南オセチアと北西部のアブハジアの統治権を取り戻そうと企てていることで、カフカス南部で新たな戦争が勃発するおそれが急激に強まってきた。
2004年5月初頭には、南西部のアジャリア自治共和国のグルジアへの完全な再統合が無血で実現し、グルジア政府は自国の領土全体の統治権を取り戻すという正当な意欲を強めるようになった。
領土の一体性の回復は、腐敗に対する闘いとともに、グルジアのサーカシヴィリ大統領が最も力を入れる分野となっている。
これらの紛争はくすぶり続けており、地域全域に火をつける危険がある。その筆頭が、大カフカスの南北を貫くオセチア地方である。
国土の22%以上を占めるアブハジア、南オセチア、そしてアジャリアはまさしく「ブラックホール」となり、あらゆる密売の温床となった。
1990年代前半から既成事実となっていたアブハジアと南オセチアの分離には、一連の歴史的要因と地政学的要因が絡み合っている。
第一次世界大戦の後、ボリシェヴィキの指導部は、ロシアとトランスカフカス地方(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア)を結ぶ主要ルートの2つを臨むオセット人とグルジア人との紛争を利用しようと企てた。
カフカスのこれら3カ国が一時的な独立を見た1918年から21年にかけ、ボリシェヴィキはグルジアを弱体化させるためにアブハジアと南オセチアの独立運動を支援した。
スターリンが両者に自治権を与えたのも、グルジア自体の独立の気運を抑えこむためだった。
民族主義者のガムサフルディア、元共産党幹部のシェワルナゼという2代にわたるグルジア大統領の決定(略奪に変じた軍事侵攻、南オセチアの自治権の停止)が、独立運動の急進化に大きく寄与しているからだ。
オセット人にとっては、数百人の被害者を出し、数千人の南オセット人の北オセチアへの追放を引き起こした過去の軍事介入
(第1次グルジア共和国による1920年の介入や、ガムサフルディア初代大統領による1991年の介入)を強く思い起こさせるものだった。