雑談スレ その いやらし186〜

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544紫陽花 ◆BDqd6UDCB2
メモ

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/hikounin/ossetia.html
歴史的にロシアとは仲が良く、北オセチアの首都・ウラジカフカスは「コーサカス地方を征服せよ!」という意味。
いくらなんでも帝政ロシアの侵略主義丸出しの地名だということで、ソ連時代は「オルジョニキジェ」に改名していたが、ソ連が崩壊したら元の名前に戻してしまった。
名は体を表わすということで、コーサカス地方へのロシアの勢力拡大において、オセット人はその尖兵の役割を果たしていた。
http://www.special-warfare.net/data_base/101_war_data/euro_01/gurujia_01.html
オセット人は本来カフカス山脈の北側、現在の北オセチア周辺に居住していたイラン系の民族であったが13世紀のモンゴル帝国の侵攻によって住居を追われ現在のカフカス南部に移動した。
http://adolf45d.client.jp/kousyougurujia.html
このとき、スターリンが行った民族政策として南オセチア自治州にイラン系住民を入植させ、民族間憎悪をあおり、グルジア民族の敵意をロシアからイラン系に向けようとした。
この南オセチアはもともとグルジアの領土だが、人工的に親ロシアのイラン系オセット人が入植されてきたのである。
http://www.randdmanagement.com/c_seiji/se_081.htm
良く知られているように、北西海岸沿いのアブハジアと北部の南オセチアで紛争が発生している。一応収まっていると言われているが、安定しているとは言い難い。
前者は、イスラム系民族によるアブハジア自治共和国の分離運動である。しかしながら、自治共和国の半分近くがグルジア人のため、1990年から紛争が続いている。
ロシアが大規模支援を行い、1993年に自治共和国側が勝利を収め、民族浄化が行われ、大規模なグルジア人難民が流出した。
後者は、南オセチア自治州のロシア連邦北オセチアとの統合を求める運動である。1989年にグルジア政府がグルジア語を強要したため、発生したと言われている。
1割に満たないオセチア人の民族運動だが、ここでもロシアが深く絡む。もちろん、ロシア軍が駐在している。
しかも、北西海岸沿いのアジャリア(Ajaria)自治共和国でも、ロシアが反中央地方勢力の政治運動に荷担していると言われている。
545紫陽花 ◆BDqd6UDCB2 :2008/08/10(日) 04:37:50 ID:yR0ZuJUM
メモ2

http://homepage.mac.com/fina/akinoyutakaannex/Koyama.pdf
また、北部の南オセチア自治州、北西部のアブハジア自治共和国では、独立以前から自治を巡って続いていた抗争が、武力紛争へと発展した。
とくにアブハジアでは、アブハジア人とグルジア人に対する民族浄化作戦が双方に対して行われ、多くの市民が犠牲となった。
http://allabout.co.jp/contents/secondlife_tag_c/politicsabc/CU20040910A/index/
オセット人の起源は伝説が多くよくわからないことが多いのですが、古代に南ロシアで勢力を誇ったイラン系のサルマート人の末裔ではないかと言われています。
チェチェン人の強制移住だって、ソ連の独裁者スターリンが行ったことであって、オセット人が責められる問題ではありません。オセット人のチェチェン併合だって、ロシア人による侵略、植民よりはましだったかもしれません。
さきほどのページでも述べたとおり、チェチェンや北オセチア、さらにいうとシベリアなどはロシアの植民地なんですね。
http://groups.msn.com/ChechenWatch/general.msnw?action=get_message&mview=0&ID_Message=1417&LastModified=4675487397217287491
大部分のオセット人はロシア正教徒である。このことが、ロシア人とオセット人の協力関係を強めてきた。コーカサス占領の歴史はオセチアから始まったのである。
ロシアはオセチアで基礎を固め、コーカサスを東西に分離しておいてから他のコーサス地域の占領に取りかかったのであった。
ロシアがモンゴル-タタール勢力に征服された時期に、オセット人はコーカサス山地、現在のグルジアに移住してきた。後にソ連時代に南オセチア自治州を形成した。
http://www.tabisen-palmtour.com/infolists/infoosGorgia.html
アルメニアとともにキリスト教文化を守り続けたこの国には数多くの教会、修道院があり、
また、イスラーム教徒の迫害から逃れるために崖に穴を掘り、穴居として住み着いた史跡もあり、大コーカサス山脈の中に分け入ると、不思議な塔状の家が立ち並んでいます。
http://www.melma.com/backnumber_45206_3591089/
駐グルジアのコワレンコ(ロシア)大使は「ロシアには受け入れがたい事態だ」と批判し、さらに「グルジアは中立的であるべきであり、そうでなければ、アブハジアと南オセチアを喪いかねないだろう」と仄めかした(2月6日)。
546紫陽花 ◆BDqd6UDCB2 :2008/08/10(日) 05:09:51 ID:yR0ZuJUM
メモ3

http://src-home.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/68/artyunov.html
オセット人の間にはキリスト教徒もイスラム教徒もいますが、オセット人イスラム教徒のうちでは誰ひとりとして、同信のイングーシ人を支援しないでしょう。
アジャール人――イスラム教徒のグルジア人――も、アブハズ人(その一部はイスラム教徒です)の側について正教徒のグルジア人と戦うことは考えません。
土地不足のため、大量のオセット人が平野部へ移住しました。より高い人口増加率を示すチェチェン人やイングーシ人にとって、移住はつい最近になって特徴的となったに過ぎません。
イスラム教がオセチアに到達するのは、ほかの地域よりも遅かったのです。
もしカフカズ危機の本質が土地の起伏のみによって説明されるとしたら、それは果たして調整が可能なのでしょうか。
御承知のとおり、開けた土地でならば危機もあれ程までに激烈を極めることはなかったでしょう。鎮圧が容易だからです。
そのような事例は結局のところ、オセチアの都市周辺地区における出来事が示しています。確かに粗暴で、一方的で、かつ混乱を極めたとはいえ、問題はイングーシ人に対する民族浄化という方法で解決されています。
http://jp.rian.ru/analytics/politics/20070822/73377081-print.html
アプハジアでは民族紛争の軍事局面は「敗北者」であるグリジア人を追放することで終わった。
http://www.teikokushoin.co.jp/teacher/high/geography/pdf/200502/geography200502all.pdf/%81%9B%8D%82%90}2005.02%91S%83y%81[%83W.pdf
学校占拠事件の起きた北オセチアのオセット人だけは数世紀前にロシア正教に改宗した子孫が多
帝政ロシアは18世紀半ばから北カフカス中央部の北オセチアの地に要塞を築き周辺にコサックや改宗した山岳民を入植させた。
そして、そこを拠点に南下作戦を進めた。山脈の南側ではグルジア正教のキリスト教国グルジアがイスラム教国トル
コとペルシャに侵略されて亡国の危機に瀕し、ロシア正教のキリスト教国ロシアに助けを求めた。ロシアは1801年にグルジア王国を併合した。
547紫陽花 ◆BDqd6UDCB2 :2008/08/10(日) 05:12:25 ID:yR0ZuJUM
メモ4

http://www.diplo.jp/articles04/0410.html
南隣のグルジア領内でも、若き大統領サーカシヴィリが北部の南オセチアと北西部のアブハジアの統治権を取り戻そうと企てていることで、カフカス南部で新たな戦争が勃発するおそれが急激に強まってきた。
2004年5月初頭には、南西部のアジャリア自治共和国のグルジアへの完全な再統合が無血で実現し、グルジア政府は自国の領土全体の統治権を取り戻すという正当な意欲を強めるようになった。
領土の一体性の回復は、腐敗に対する闘いとともに、グルジアのサーカシヴィリ大統領が最も力を入れる分野となっている。
これらの紛争はくすぶり続けており、地域全域に火をつける危険がある。その筆頭が、大カフカスの南北を貫くオセチア地方である。
国土の22%以上を占めるアブハジア、南オセチア、そしてアジャリアはまさしく「ブラックホール」となり、あらゆる密売の温床となった。
1990年代前半から既成事実となっていたアブハジアと南オセチアの分離には、一連の歴史的要因と地政学的要因が絡み合っている。
第一次世界大戦の後、ボリシェヴィキの指導部は、ロシアとトランスカフカス地方(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア)を結ぶ主要ルートの2つを臨むオセット人とグルジア人との紛争を利用しようと企てた。
カフカスのこれら3カ国が一時的な独立を見た1918年から21年にかけ、ボリシェヴィキはグルジアを弱体化させるためにアブハジアと南オセチアの独立運動を支援した。
スターリンが両者に自治権を与えたのも、グルジア自体の独立の気運を抑えこむためだった。
民族主義者のガムサフルディア、元共産党幹部のシェワルナゼという2代にわたるグルジア大統領の決定(略奪に変じた軍事侵攻、南オセチアの自治権の停止)が、独立運動の急進化に大きく寄与しているからだ。
オセット人にとっては、数百人の被害者を出し、数千人の南オセット人の北オセチアへの追放を引き起こした過去の軍事介入
(第1次グルジア共和国による1920年の介入や、ガムサフルディア初代大統領による1991年の介入)を強く思い起こさせるものだった。