卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126

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810惟任日向守
本型は、「吹雪型」の真の後継艦として計画され、後の甲型駆逐艦(「陽炎型」「夕雲型」)の基礎となった駆逐艦です。

1922年(大正11年)、ワシントン軍縮条約によって、主力艦の保有数を対米6割に抑え込まれた日本海軍は、
米太平洋艦隊の迎撃作戦に抜本的な見直しを迫られることになりました。
そして導き出された解答の一つが、水雷戦隊による襲撃です。
軍令部は、この襲撃任務を満足することのできる、艦隊型駆逐艦の整備に躍起になりました。
日本の駆逐艦に求められる能力は、この軍令部の要求から察することが出来ます。
それは、決戦場と予想される内南洋まで独力で進出しうる強靭な耐波性と、敵主力艦に対する襲撃を有効ならしめる重雷装でした。
811惟任日向守:2007/06/03(日) 21:35:03 ID:I8YjzBN0
この要求を具現化した「吹雪型」駆逐艦は、極めて優秀な成績を修め、しかしそれ故に、列強に新たな軍縮条約の必要性を感じさせてしまいます。
この結果、1930年(昭和5年)にロンドン軍縮条約が締結され、日本は「吹雪型」のような大型駆逐艦を建造することが出来なくなってしまいます。
日本海軍は、条約の定める排水量の制限内で、「吹雪型」に匹敵する性能を持った中型駆逐艦を計画します。
しかし、建造された中型駆逐艦「初春型」「白露型」は、用兵側の要望を満足するような性能を、どうしても実現できませんでした。
用兵側は、速力、凌波性、航続距離の全てに不満があったようですが、この中でも特に航続距離の不足については強い不満を持っていました。
これらの問題は、中型駆逐艦という枠がある以上、容易に解決できる問題ではありませんでした。
しかし日本は1931年(昭和6年)の「満州事変」、1933年(昭和8年)の「国際連盟脱退」と、国際的に、特に対英米関係について非常に厳しい局面を迎えつつありました。
そこで日本海軍は、ワシントン・ロンドン両軍縮条約の破棄を決定することになりますが、その時期がちょうどの第二次海軍軍備補充計画(マル2計画)検討の時期に当たっていたのです。
実際には1934年(昭和9年)に日本は軍縮条約を脱退し、1936(昭和11年)以降は無制限条約時代に突入することになります。
そのいわゆる条約明けを見越し、日本海軍は艦隊を整備して行くことにしたのです。