卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126

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754金吾中納言
念のため艦艇類別等級別表の改正記録を追うと、1932年(昭和7年)12月10日に「初霜」「有明」「夕暮」の3隻が「初春型」に追加されていたのが、
1933年(昭和8年)12月15日に「初春型」から「有明」「夕暮」が削られ、新たに「有明型」が設けられて「有明」「夕暮」「白露」「時雨」「村雨」が分類されています。
一応辻褄は合います。
これを裏付けるように、神戸駐在海軍監督官として1934年(昭和9年)6月まで勤務し「有明」建造の監督に当たっていた庭田造船大佐は、
「有明」建造中の兵装の変遷について次のように回想しています。


「主砲は艦首甲板上にあった単装12.7cmA型砲塔1基を移動し、三年式連装12.7cmB型砲塔2基の内1基だけを残し、これを後甲板に背負式としたが、さらに改めて上甲板におろした。
発射管は九〇式3連発射管3基中後部のデッキハウス上にあったものを撤去し、他の3連式とも九二式四連発射管2型2基とした。即ち61cm9門を8門にへらし、重量軽減と重心点を降下せしめた」

この庭田回想は実に悩ましい記述で読む者に混乱を惹起するのですが、主砲の方はともかくとして、発射管の推移については1933年(昭和8年)2月の図面を使って「有明」を建造していたことを表わしていると言えます。
問題は主砲の方で、途中で連装3基6門にしたとも徹頭徹尾連装単装混載5門であったとも取れます。
ただ一度は後部主砲群を背負式配置にしたことは読みとることができます。