卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126

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751金吾中納言
復原性能が改善された「初春型」ですが、「友鶴事件」の翌年の1935年(昭和10年)9月25日、今度は「第四艦隊事件」が日本海軍を揺るがすことになります。
台風による激浪が、「吹雪型」を始めとする艦艇に重大な破損を与えた事件です。
「友鶴事件」の余波もまだ冷めやらぬうちの今回の「第四艦隊事件」に、全海軍は激しく動揺しました。
海軍はすぐさま原因究明を行い、その結果、今度は船体強度の不足が指摘されることとなったのです。
船体の軽量化を図って様々な部位の強度が削られ、その限界を超えつつあったことが最大の原因ですが、溶接構造を使って重量軽減に努めた新型艦艇にはまた別の問題が内在していました。
当時の溶接技術はまだ未熟で、内部応力が広範囲に残存したままだったのです。
「初春型」や軽巡「最上型」などの溶接構造艦では、船体の前後端が上に反り返るような力が残っており、船体強度への重大な影響が懸念されたのです。
「初春型」は即座に船体強度改善工事に着手することになりました。
今回の工事は、艦容が変わるような工事ではありませんでしたが、前回の工事が2ヶ月程度で終了したのに対し、今回は7〜9ヶ月もの長期間を要しました。
これは、前回が主として艦上構造物に対する工事であったのに対し、今回が甲板や外板の張り替え、熔接部を引き剥がし鋲止で接合し直すなどの、船体そのものへの工事であったためでしょう。

性能改善工事の結果、「初春型」は船体強度も十分過ぎるほど強化され、実用上全く不安のない駆逐艦になりました。
しかしその為に払った代償は大きく、計画当初の高性能・重武装駆逐艦という位置づけは失われ、平凡な性能の中型駆逐艦という位置づけになってしまいました。
特に、船体強度改善工事後の「初春型」の基準排水量は1700tにも達し、速力も当初の37ノットから34ノット弱と低下、9射線を誇った重雷装も6射線とかなり弱体化し、
海軍の目論んだ「画期的中型駆逐艦」の夢はここに露と消えたのです。