卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126
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金吾中納言:
解説
本型は特に傑出した性能の駆逐艦というわけではありませんでした。
しかし、本型ほど造船技術の推移に翻弄された駆逐艦はなく、その意味で非常に有名な駆逐艦です。
1922年(大正11年)、ワシントン軍縮条約が締結されました。
主力艦の保有数を制限するこの条約により、戦艦の保有数を対米6割に抑え込まれた日本海軍は、米太平洋艦隊の迎撃作戦に抜本的な見直しを迫られることになりました。
そして導き出された解答の一つが、水雷戦隊による襲撃です。
軍令部は、この襲撃任務を満足することのできる、艦隊型駆逐艦の整備に躍起になりました。
日本の駆逐艦に求められる能力は、この軍令部の要求から察することが出来ます。
それは、決戦場と予想される内南洋まで独力で進出しうる強靭な耐波性と、敵主力艦に対する襲撃を有効ならしめる重雷装でした。
この要求を明確に具現化した初めての駆逐艦が、「吹雪型」です。
この「吹雪型」は、「革命的」と言われるほどの成功作になりました。
しかしあまりの優秀さゆえに、列強の強い警戒心を呼び起こしてしまいます。
当時、ワシントン軍縮条約によって各国の主力艦の保有数に制限を設けていましたが、列強は補助艦艇にも制限を設けることにしたのです。
この結果、1930年(昭和5年)にロンドン軍縮条約が締結されます。
日本の駆逐艦の保有量は総排水トン数105,500tに制限され、新造できる駆逐艦1隻の大きさも排水量1500t以下に制限されてしまったのです。
これにより日本は、「吹雪型」のような大型で優秀な航洋型駆逐艦を建造することを制限されてしまったのです。
もっとも、日本海軍も「吹雪型」を引き金とする、大型駆逐艦の建艦競争は避けたかったので、条約以前から「吹雪型」の建造中止は決定されていたようです。