卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126
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金吾中納言:
「浦波」起工時、もちろん「B型砲架」はまだ完成しておらず、それどころか1928年(昭和3年)末とされた竣工にも間に合わない状況でした。
武装を施さずに完成させたことにすると、戦艦「陸奥」の時のようなゴタゴタを繰り返す可能性がありました。
そこで海軍は、「浦波」の船体自体は改正型である「2型」の設計で通すことにしましたが、主砲については「1型」同様「A型砲架」を装備することにしました。
また、「B型砲架」を持たなかったためか時間的な理由からか、はっきりとした理由は手持ちの資料中には発見できませんでしたが、艦橋構造物も「1型」と同型で、「2型」のような艦橋の大型化は施工されませんでした。
こういった事情から、「浦波」は、「2型」の船体に「1型」の主砲と艦橋構造物を持つことになりました。
従って「浦波」のことを、「1型」以降「2型」以前という意味で、「改1型」と呼ぶことがあります。
しかし結局、ジュネーヴ軍縮会議はまとまらなかったため、日本海軍は予定通り獲得分の予算の執行に着手することが出来ました。
これらの駆逐艦のうち、最後に建造された4隻を除く10隻は、「1型」に対する改正点を盛り込んだ「2型」として建造されたのです。
ちなみに、本型のうち「朧」「曙」「漣」「潮」の4隻を「後期2型」、それ以前の6隻を「前期2型」と、更に細分化する場合もあります。
これは煙突周辺の艤装が、わずかに変更されたことに起因するものです。
こういった外見上の細かい分類が行われてしまうのは、「吹雪型」が、その都度その都度最新鋭の兵器や機関などを取り入れ続けていた証明です。
平時の、いわゆるカタログ・スペックがその艦の戦力価値を決定付ける唯一の物差しである時、こういった方式は有効でした。
特に、物量にとんでもない格差がある米海軍を仮想敵にしている日本海軍の場合、個々の艦の能力は少しでも高い方が望ましいわけで、そういう意味では全く正しい方策でした。
しかし、多少の質よりも数が欲しい戦時にまで、この個艦主義を引きずってしまったのが日本海軍の硬直性だったのです。