卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126

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675金吾中納言
この失敗は、後に日本海軍の、大日本帝国の息の根を止める大失策となってしまったのです。
本型は大正7年度計画で3隻、次の大正9年度計画で2隻の建造が計画されます。
更にその後大正12年度計画で4隻の建造が追加されています。
先の5隻と、後の4隻の計画年度の開きは、ワシントン条約の影響です。
1922年(大正11年)に締結されたこの軍縮条約において、八八艦隊計画案そのものの抜本的な見直しが行われたのです。
当初は八八艦隊の主力駆逐艦として27隻もの大量建造が計画されていたのですが、この軍縮条約の結果、9隻で建造を打ち切ることになったのです。
建造打ち切りの確かな理由については、自分は良く分かりませんが、大正9年に軍令部から61cm魚雷の実用化を急がせるような発表があったため、これが大きな原因の一つであろう事は容易に想像がつくところです。
従って本型は、日本の排水量1000tを超える大型駆逐艦で、53cm魚雷を最後に搭載したタイプとなったわけです。
ここで本型に対するワシントン軍縮条約の、もう一つの余波を挙げます。
それは本型の艦名のことです。
本型各艦も「峯風」のように「○風」という固有の艦名が用意されていました。
しかし本型は当初、前述のとおり27隻もの大量建造が計画されていました。
この結果、本型以後の駆逐艦に充てる固有の艦名に不足する恐れが生じたのです。
困り果てた海軍は、結局本型以降の駆逐艦に対し固有の艦名の使用を止め、「第一駆逐艦」というように、番号による識別法に変更してしまったのです。
この番号命名法は本型以後も存続し、「吹雪型」まで適用されています。
もっとも、この艦名は将兵にはすこぶる不評でした。
それまでの優雅な艦名に愛着を感じていた将兵も多く、番号名に殺伐とした感じがあり、これが好きになれないという心情もあったようです。
また日本海軍の駆逐艦は、平時には同型艦の多い駆逐艦の識別を容易にするために、駆逐隊番号を艦首に、駆逐艦名を舷側に書き入れていました。
番号表示になった艦名と、同じく数字で表す隊番号とが混同され易く、将兵に混乱を起こすことがあったことも問題視されたようです。
この番号艦名は、昭和3年8月1日に「神風」以下、各艦従来の命名基準に従った名称に変更されたのです。