卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126

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674金吾中納言
また後期艦にはもう一つ、特筆すべき点があります。
それは、爆雷兵装の装備です。
第一次世界大戦において初めて本格的に使用され、そしてあの大英帝国をして降服の寸前まで追い込めた画期的新兵器が、ドイツのUボート、つまり潜水艦です。
ドイツの潜水艦に悩まされたイギリスは、この被害を食い止めるために、対潜兵器、爆雷を開発します。
このドラム缶のような形をした不格好な新兵器、爆雷によって、イギリスは辛うじて継戦能力の保持に成功し、第一次世界大戦を勝利に終えています。
日本海軍がイギリスから爆雷兵器一式とその製造権を購入したのは、大正10年(1921年)のことです。
正式採用された八一式爆雷投射機は、「睦月型」と共に、本型の後期計画艦4隻に装備されることになりました。
これが、日本海軍駆逐艦として初の爆雷兵装の装備例になったわけです。
余談ですが、日本はイギリスの求めに応じて地中海にまで護衛艦を派遣し、そして実際に潜水艦による雷撃を受けて駆逐艦「榊」が大破するという損害まで出しています。
つまり日本海軍は、潜水艦の本質と、潜水艦による海上封鎖の恐怖と、海上交通路防衛の重要性を知っていたのです。
事実日本海軍は、第一次世界大戦の後の大正11年(1922年)、わざわざイギリスに新見政一少佐を派遣し、イギリスの最新鋭のシーレーン防衛体制を観察させていたのです。
軍令部参謀である新見少佐の報告書は、時の軍令部長にまで届き、軍令部長は重大な興味を抱いたと言われています。
にも関わらず、日本海軍は爆雷兵器の導入だけを行い、海上護衛戦思想とその統括機構を導入することは、遂になかったのです。
この失敗は、後に日本海軍の、大日本帝国の息の根を止める大失策となってしまったのです。