卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126

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667金吾中納言
さて、本型は上海事変(1932年)辺りまでが現役駆逐艦としての寿命でした。
もうその頃になると、最高速力も34〜5ノットどまりの状態で、老朽化がひどくなっていたからです。
その後は、空母に随伴し、着艦に失敗して海に転落した搭乗員の救助などが任務の、通称「トンボ釣り」と呼ばれる直衛艦になったりしています。
更に1940年(昭和15年)になると、「島風(初代)」と「灘風」の二艦が駆逐艦から哨戒艇に類別を変更します。
本来であればこのように静かに寿命を迎えることになるはずだった「峯風型」だったのですが、1941年(昭和16年)に日本は太平洋戦争を始めてしまいました。
その為引退するにも引退できず、本型は最高齢駆逐艦として、太平洋戦争に参戦することになったのです。

1942年(昭和17年)に「矢風」が標的艦に類別を変更し、残る12隻が駆逐艦として本格的に参戦しました。
「峯風型」は、さすがに第一線で敵艦と撃ち合うような荒っぽい真似は無理とされたようで、主に内地と南洋間の船団護衛任務につきました。
しかし、この任務は日本の生命線を護る重要なものだったのです。
不幸なことに、日本海軍にそれを理解している者が少なく、「峯風型」は全く旧式な対潜兵装のまま、この任務に服さざるを得なかったのです。
高性能レーダーと高性能魚雷、ウルフ・パック戦法などを駆使して襲撃を仕掛ける米潜水艦隊に対し、老嬢「峯風型」は非常な苦戦を強いられます。
それは、日本海軍、ひいては大日本帝国そのものの苦戦でした。
海上護衛戦に闘志を燃やした「峯風型」は、参戦12隻中、8隻が失われるという結果に終わります。
そのうち7隻までが(哨戒艇に移籍した「島風(初代)」「灘風」を含めると15隻中9隻が)潜水艦による沈没でした。