卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126

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665金吾中納言
更に本型が持つ高速性能も見逃せない点です。
日本最速の駆逐艦と言えば、「丙型駆逐艦・島風」ですが、それ以前の日本記録保持者は本型4番艦の「島風(初代)」なのです。
これは、本型が主目標としたアメリカ太平洋艦隊の計画中の巡洋戦艦が、33.3ノットもの高速性能を発揮する予定であった為に付与されたものです。
その為に、主機械にギアードタービンを採用します。
当時、日本にあってはまだ純国産化できていない最新式の技術ですが、八四艦隊計画の開始と共に日本駆逐艦に広く採用された方式です。
ギアードタービンは高速化に適した機関で、この採用のおかげで本型は計画速力の39ノットをほぼ全艦が達成することに成功しました。
特に4番艦の「島風(初代)」は、1920年(大正9年)の公試時に実に40.698ノットの高速を発揮、以後1943年(昭和18年)に「島風(二代)」に破られるまで、23年の間記録を保持し続けました。
ただ、問題もあります。
「峯風型」は、確かに公試運転結果の数値を見る限り、後の「陽炎型」や「夕雲型」よりも高速に見えます。
しかし一度外洋に出て、大波の中を全力疾走させてみると、途端に凌波性の差が出てきます。
つまり、静かな波のない海面での速力は「峯風型」は素晴らしいのですが、うねりのある荒れた海面を押し渡る能力では、後の駆逐艦にはかなわなかったのです。

本型の持つ性能は、同時期の列強の駆逐艦に比べても強力なもので、特に砲力・速力においては他の追随を許さないほどでした。
但し、本型の登場前には第一次世界大戦がありました。
本格的な参戦をした列強は、駆逐艦の保有数が過剰状態にあるか本国経済がどん底にあり、とても駆逐艦の新規建造を行おうという気になれなかった点、そして当時艦載機関の技術発達がそれこそ日進月歩であった点は、差し引いて見るべきでしょう。
それらの技術を次から次へと取り入れ、新型駆逐艦を建造できるような状態にあったのは、大戦の戦場から遠く離れ、特に大戦向けに大きなアクションを起こさなかった日本海軍だけだったのです。