卑劣な犯罪者、小林一美実行犯(45)に実刑を望む声多数★126

このエントリーをはてなブックマークに追加
661金吾中納言
峯風型 【MINEKAZE class】

要目(新造時)
基準排水量 1215t
公試排水量 1345t
全長 102.57m
全幅 8.92m
平均吃水 2.90m
主機械 三菱パーソンズ式オールギヤードタービン2基
軸数 2軸
主缶 ロ号艦本式専焼缶4基
機関出力 38500馬力
速力 39ノット(計画)
燃料搭載量 395t
航続距離 14ノット−3600海里(計画)
乗員 148名
主要兵装
 主砲
 魚雷発射管
 機銃
 機雷投下軌条
45口径12cm単装砲4基
53cm連装発射管3基
6.5mm単装機銃2基
2基
基本計画番号 F41
F41A(「野風」「波風」「沼風」)
同型艦 15隻
同型艦一覧 峯風、 澤風、 沖風、 島風、 灘風、 矢風、 羽風、 汐風、 秋風、 夕風、 太刀風、 帆風、 野風、 波風、 沼風
662金吾中納言:2007/05/31(木) 10:22:23 ID:p8ApeHK7
本型は、日本が初めて量産した一等駆逐艦です。

1917年(大正6年)、日本海軍はある画期的な艦隊整備計画を成立させました。
後に「八八艦隊計画」に発展する「八四艦隊計画」です。
この整備計画は、日本海軍がアメリカ太平洋艦隊を迎撃する為に必要な艦艇を一挙に整備しようという、超大型軍備拡大計画でした。
およそ当時の日本の国力の限界の遥か遥か上をいく、無謀極まりない計画だったのですが、その是非はともかくとして、そこでは強力な新式戦艦群が計画されたのです。
日本の八八艦隊時代の戦艦の特徴は、全てが計画速力26ノットを超える高速戦艦であり、巡洋戦艦に至っては計画速力30ノットという具合でした。
これに対抗するアメリカ三年計画も、特に巡洋戦艦が33.3ノットという高速を発揮する予定でした。
太平洋でこれを迎撃する日本海軍は、これら新式戦艦群の性能に対抗しうる補助艦艇をも欲したのです。
従って、八四艦隊で計画される駆逐艦に要求される最優先事項は、太平洋の荒波を乗り越えられるだけの良好な凌波性能と、アメリカ巡洋戦艦を捕えるに足る高速性能でした。

この結果計画された駆逐艦が、本型です。
本型はその設計から、初の純日本式駆逐艦と言われます。
正確には、一等駆逐艦としては初の純日本式であり、本型より少し前に二等駆逐艦「樅型」が存在し、これが本型の設計の基礎となったので、「樅型」が初の純日本式駆逐艦となります。
それまでの駆逐艦は英国式でしたが、では何故ここで純日本式でなくてはならなかったのでしょう。
それは、先ほど挙げた要求仕様、凌波性の向上と、戦術上の必要性がその理由なのです。


663金吾中納言:2007/05/31(木) 10:25:17 ID:p8ApeHK7
どの辺が「純日本式」であるか、幾つか例を挙げましょう。
まず、艦橋の直前に一段低められた甲板、「ウェルデッキ」が設けられた点です。
一番連管(魚雷発射管)がある位置ですが、この甲板の存在意義は凌波性の向上にあります。
高速で疾駆する駆逐艦は、しばしば波に頭を突っ込みます。その時、その波が艦橋を直撃すると、艦橋が波の力によって押し潰されてしまうことがあるのです。
そこで、艦首を乗り越えた波をこの「ウェルデッキ」に落とし、艦橋を直撃・破壊することを防ごうとしたのです。
第一次世界大戦時に、ドイツ海軍の水雷艇がこの形式を頻繁に使用したそうですが、艦隊型駆逐艦に本格的に採用するのは異例でした。

また、主砲が全て船首甲板と同じレベル、即ち上甲板よりも更に一段高い位置に設けられている点、これも指摘することができます。
この特徴も荒波への対抗策です。
波が砲手を直接襲うことを極力避け、安定した射撃を続けられるように考慮した結果です。
664金吾中納言:2007/05/31(木) 10:28:31 ID:p8ApeHK7
そして「スプーン・バウ」と呼ばれる独特の艦首形状の採用も「純日本式」の最たるものとして挙げられます。
これは八八艦隊計画艦の全てに共通する特徴でした。
戦艦「長門」も5500t級軽巡も採用しているこの日本独特の艦首形状ですが、その由来は戦術的な必要性でした。
「一号機雷」という機雷があります。
これは日本海軍が洋上決戦用に開発した軍機(第一級の軍機密)兵器で、「連係機雷」とも呼ばれます。
一号機雷は、2コの浮遊機雷を100m程度のワイヤで結んだようなもので、艦隊決戦に先立ち敵艦隊の前方海域にこれを敷設、機雷堰を設けます。
敵艦がワイヤを引っかけると、その両端に繋がった2コの機雷が敵艦の両舷側に接触、爆発するという仕組みです。
ところがこの一号機雷は、もちろん日本艦艇がワイヤを引っかけても、当然の事ながら爆発します。
戦況によってはどう機動するかわからない決戦場においては、日本艦隊がこの機雷堰に突入する恐れもあり、このままではあまり好ましい作戦とは言えません。
そこで、機雷堰に突入しても機雷と接触しないように、艦艇をワイヤを乗り越えるような形状にすることが検討されました。
水槽実験の結果採用されたのが、この「スプーン・バウ」だったのです。
もちろん、一号機雷は外国には知られていないので、この艦首形状は外国海軍にとっては「謎」だったようです。

また一号機雷そのものの敷設も、敵艦隊の前面において敷設艦が悠長に敷設しているわけにもいかないので、本型を含む駆逐艦などが敷設に当たることになっていました。
本型の艦尾に装備された投下軌条は、爆雷投下軌条ではなく、本来は機雷投下軌条なのです。
665金吾中納言:2007/05/31(木) 10:31:25 ID:p8ApeHK7
更に本型が持つ高速性能も見逃せない点です。
日本最速の駆逐艦と言えば、「丙型駆逐艦・島風」ですが、それ以前の日本記録保持者は本型4番艦の「島風(初代)」なのです。
これは、本型が主目標としたアメリカ太平洋艦隊の計画中の巡洋戦艦が、33.3ノットもの高速性能を発揮する予定であった為に付与されたものです。
その為に、主機械にギアードタービンを採用します。
当時、日本にあってはまだ純国産化できていない最新式の技術ですが、八四艦隊計画の開始と共に日本駆逐艦に広く採用された方式です。
ギアードタービンは高速化に適した機関で、この採用のおかげで本型は計画速力の39ノットをほぼ全艦が達成することに成功しました。
特に4番艦の「島風(初代)」は、1920年(大正9年)の公試時に実に40.698ノットの高速を発揮、以後1943年(昭和18年)に「島風(二代)」に破られるまで、23年の間記録を保持し続けました。
ただ、問題もあります。
「峯風型」は、確かに公試運転結果の数値を見る限り、後の「陽炎型」や「夕雲型」よりも高速に見えます。
しかし一度外洋に出て、大波の中を全力疾走させてみると、途端に凌波性の差が出てきます。
つまり、静かな波のない海面での速力は「峯風型」は素晴らしいのですが、うねりのある荒れた海面を押し渡る能力では、後の駆逐艦にはかなわなかったのです。

本型の持つ性能は、同時期の列強の駆逐艦に比べても強力なもので、特に砲力・速力においては他の追随を許さないほどでした。
但し、本型の登場前には第一次世界大戦がありました。
本格的な参戦をした列強は、駆逐艦の保有数が過剰状態にあるか本国経済がどん底にあり、とても駆逐艦の新規建造を行おうという気になれなかった点、そして当時艦載機関の技術発達がそれこそ日進月歩であった点は、差し引いて見るべきでしょう。
それらの技術を次から次へと取り入れ、新型駆逐艦を建造できるような状態にあったのは、大戦の戦場から遠く離れ、特に大戦向けに大きなアクションを起こさなかった日本海軍だけだったのです。
666金吾中納言:2007/05/31(木) 10:34:19 ID:p8ApeHK7
本型は大正6年度計画で9隻、翌大正7年度計画で6隻の建造が計画されます。
大正6年度艦9隻と、大正7年度艦3隻の12隻は原計画通りの姿で竣工しますが、13番艦〜15番艦の3隻については一部設計を変更した上で竣工しています。
設計が変更されたのは、後部の3番砲と4番砲の位置を近づかせた点です。
原計画では、3番砲と4番砲とは2番・3番連管を挟んで離れて位置していたため、統制が取り難いという欠点があったそうです。
そこで後楼を挟んで3番砲と4番砲を配置したのです。
この設計変更の為、13番艦「野風」以降を「野風型」と呼んで、本型と区別することもあります。
この方式は好評で、本型の後も「神風型」「睦月型」に採用され、「吹雪型」以降も、後部主砲群が背負い式に連続配置という形式に変わりながら、日本駆逐艦に受け継がれていきます。
667金吾中納言:2007/05/31(木) 10:36:05 ID:p8ApeHK7
さて、本型は上海事変(1932年)辺りまでが現役駆逐艦としての寿命でした。
もうその頃になると、最高速力も34〜5ノットどまりの状態で、老朽化がひどくなっていたからです。
その後は、空母に随伴し、着艦に失敗して海に転落した搭乗員の救助などが任務の、通称「トンボ釣り」と呼ばれる直衛艦になったりしています。
更に1940年(昭和15年)になると、「島風(初代)」と「灘風」の二艦が駆逐艦から哨戒艇に類別を変更します。
本来であればこのように静かに寿命を迎えることになるはずだった「峯風型」だったのですが、1941年(昭和16年)に日本は太平洋戦争を始めてしまいました。
その為引退するにも引退できず、本型は最高齢駆逐艦として、太平洋戦争に参戦することになったのです。

1942年(昭和17年)に「矢風」が標的艦に類別を変更し、残る12隻が駆逐艦として本格的に参戦しました。
「峯風型」は、さすがに第一線で敵艦と撃ち合うような荒っぽい真似は無理とされたようで、主に内地と南洋間の船団護衛任務につきました。
しかし、この任務は日本の生命線を護る重要なものだったのです。
不幸なことに、日本海軍にそれを理解している者が少なく、「峯風型」は全く旧式な対潜兵装のまま、この任務に服さざるを得なかったのです。
高性能レーダーと高性能魚雷、ウルフ・パック戦法などを駆使して襲撃を仕掛ける米潜水艦隊に対し、老嬢「峯風型」は非常な苦戦を強いられます。
それは、日本海軍、ひいては大日本帝国そのものの苦戦でした。
海上護衛戦に闘志を燃やした「峯風型」は、参戦12隻中、8隻が失われるという結果に終わります。
そのうち7隻までが(哨戒艇に移籍した「島風(初代)」「灘風」を含めると15隻中9隻が)潜水艦による沈没でした。
668金吾中納言:2007/05/31(木) 10:39:42 ID:p8ApeHK7
同型艦略歴

峯風 大正 7年 4月20日 舞鶴工廠にて起工
    大正 9年 5月29日 舞鶴工廠にて竣工
    昭和19年 2月10日 台湾沖にて、米潜の雷撃によって沈没
澤風 大正 7年 1月17日 三菱長崎造船所にて起工
    大正 9年 3月16日 三菱長崎造船所にて竣工
    昭和20年 9月15日 除籍。後に小名浜港防波堤
沖風 大正 8年 2月22日 舞鶴工廠にて起工
    大正 9年 8月17日 舞鶴工廠にて竣工
    昭和18年 1月10日 勝浦沖にて、米潜の雷撃によって沈没
島風 大正 8年 9月 5日 舞鶴工廠にて起工
(初代)大正 9年11月15日 舞鶴工廠にて竣工
    昭和15年 4月 1日 哨戒艇に類別。
    昭和18年 1月13日 カビエン沖にて、米潜の雷撃によって沈没
灘風 大正 9年 1月 9日 舞鶴工廠にて起工
    大正10年 9月30日 舞鶴工廠にて竣工
    昭和15年 4月 1日 哨戒艇に類別。
    昭和20年 7月25日 小スンダ列島付近にて、英潜の雷撃によって沈没
矢風 大正 7年 8月15日 三菱長崎造船所にて起工
    大正 9年 7月19日 三菱長崎造船所にて竣工
    昭和17年 7月20日 特務艦に類別。
    昭和20年 9月16日 除籍
羽風 大正 7年11月11日 三菱長崎造船所にて起工
    大正 9年 9月16日 三菱長崎造船所にて竣工
    昭和18年 1月23日 カビエン沖にて、米潜の雷撃によって沈没

669金吾中納言:2007/05/31(木) 10:44:34 ID:p8ApeHK7
汐風 大正 9年 5月15日 舞鶴工廠にて起工
大正10年 7月29日 舞鶴工廠にて竣工
昭和20年10月 5日 除籍。後に女川港防波堤
秋風 大正 9年 6月 7日 三菱長崎造船所にて起工
大正10年 4月 1日 三菱長崎造船所にて竣工
昭和19年11月 3日 南シナ海にて、米潜の雷撃によって沈没
夕風 大正 9年12月14日 三菱長崎造船所にて起工
大正10年 8月24日 三菱長崎造船所にて竣工
昭和20年10月 5日 除籍。後に賠償艦としてイギリスに引渡
太刀風 昭和 9年 8月13日 舞鶴工廠にて起工
昭和10年12月 5日 舞鶴工廠にて竣工
昭和19年 2月17日 トラックにて、空襲によって沈没
帆風 大正 9年11月30日 舞鶴工廠にて起工
大正10年12月22日 舞鶴工廠にて竣工
昭和19年 7月 6日 サンギ島沖にて、米潜の雷撃によって沈没
野風 大正10年 4月16日 舞鶴工廠にて起工
大正11年 3月31日 舞鶴工廠にて竣工
昭和20年 2月16日 南シナ海にて、米潜の雷撃によって沈没
波風 大正10年11月 7日 舞鶴工廠にて起工
大正11年11月11日 舞鶴工廠にて竣工
昭和20年10月 5日 除籍。後に賠償艦として中華民国に引渡
沼風 大正10年 8月10日 舞鶴工廠にて起工
大正11年 7月24日 舞鶴工廠にて竣工
昭和18年12月18日 沖縄沖にて、米潜の雷撃によって沈没
670金吾中納言:2007/05/31(木) 10:48:56 ID:p8ApeHK7
次回予告

神風型 【KAMIKAZE class】
671金吾中納言:2007/05/31(木) 22:51:09 ID:p8ApeHK7
神風型 【KAMIKAZE class】

要目(新造時)
基準排水量 1270t
公試排水量 1400t
全長 102.57m
全幅 9.16m
平均吃水 2.92m
主機械 三菱パーソンズ式オールギヤードタービン2基(神風・朝風・春風・松風・旗風)
艦本式オールギヤードタービン2基(追風・疾風・朝凪・夕凪)
軸数 2軸
主缶 ロ号艦本式専焼缶4基
機関出力 38500馬力
速力 37.25ノット(計画)
燃料搭載量 422t
航続距離 14ノット−3600海里(計画)
乗員 154名
主要兵装
 主砲 45口径12cm単装砲4基
 魚雷発射管 53cm連装発射管3基
 機銃 6.5mm単装機銃2基(神風・朝風・春風・松風・旗風)7.7mm単装機銃2基(追風・疾風・朝凪・夕凪)
 機雷投下軌条 2基
 爆雷投射機 片舷用2基(追風・疾風・朝凪・夕凪)
基本計画番号 F41B
同型艦 9隻
同型艦一覧 神風、 朝風、 春風、 松風、 旗風、 追風、 疾風、 朝凪、 夕凪
672金吾中納言:2007/05/31(木) 22:55:14 ID:p8ApeHK7
解説

本型は、「峯風型」の改正型駆逐艦です。
1917年(大正6年)、日本海軍はある画期的な艦隊整備計画を成立させました。
後に「八八艦隊計画」に発展する「八四艦隊計画」です。
この整備計画は、日本海軍がアメリカ太平洋艦隊を迎撃する為に必要な艦艇を一挙に整備しようという、超大型軍備拡大計画でした。
およそ当時の日本の国力の限界の遥か遥か上をいく、無謀極まりない計画だったのですが、その是非はともかくとして、そこでは強力な新式戦艦群が計画されたのです。
日本の八八艦隊時代の戦艦の特徴は、全てが計画速力26ノットを超える高速戦艦であり、巡洋戦艦に至っては計画速力30ノットという具合でした。
これに対抗するアメリカ三年計画も、特に巡洋戦艦が33.3ノットという高速を発揮する予定でした。
太平洋でこれを迎撃する日本海軍は、これら新式戦艦群の性能に対抗しうる補助艦艇をも欲したのです。
従って、八四艦隊で計画される駆逐艦に要求される最優先事項は、太平洋の荒波を乗り越えられるだけの良好な凌波性能と、アメリカ巡洋戦艦を捕えるに足る高速性能でした。
この結果計画された駆逐艦が、「峯風型」です。
「峯風型」は極めて優れた性能を持った駆逐艦となりました。
同時期の諸外国の駆逐艦に比べ、特に砲力と速力において勝る成功作となったのです。
しかし完璧な駆逐艦など有りはしないわけで、やはり改装などによる重量増加などのため、重心の上昇が懸念されるようになりました。
15隻建造された「峯風型」に続き、これら改正点を吸収した「改峯風型」として計画された艦隊型駆逐艦が、本型「神風型」です。
本型は、「峯風型」の後期型である「野風」を始めとする通称「野風型」を基本にしています。
主砲配置など、艦上構造物の配置はほとんど同様であり、また機関も計画段階では同一のものを採用する予定でした。
異なる点は、改装などによる重心の上昇に対応すべく、艦幅を広げて復原性を確保した点です。
そのため、本型は「峯風型」に比べ、排水量がやや増加し、また速力が2ノットほど低下することになりました。
この「艦幅を広げて復原性を上昇せしめる」という考え方は、この後の日本駆逐艦群にも受け継がれますが、しかし「初春型」において破綻を来すことになります。
673金吾中納言:2007/05/31(木) 23:00:29 ID:p8ApeHK7
本型「神風型」の外見上の特徴は、「野風」に準じます。
「峯風型」の艦橋前に設けられた特徴的な「ウェルデッキ」も、八八艦隊計画艦に共通する「スプーン・バウ」と呼ばれる独特の艦首形状もそのままです。
遠目には、そう簡単には両者を識別できないでしょう。
「野風型」と本型との、一番分かりやすい識別法は、煙突の傾斜角でしょう。
「峯風型」の煙突はぱっと見ただけでは、直立しているように見えます。
実際にはわずかに後方に傾いているのですが、本型はそれ以上に煙突の傾斜が明瞭です。
しかし本型竣工時の煙突の登頂開口部の断面は水平に近く、やや古めかしい印象をぬぐえません。
もっとも、この点は後に改装された際に改正され、鋭角的な断面を持つようになります。
この他にも、艦橋前部・側部に鋼板が装備され、羅針艦橋部人員の風浪からの保護に注意が払われていますが、まだ露天艦橋であり、固定天蓋が装備されるのはまだ先のことです。
また、本型はその建造時期によって前期建造艦と後期建造艦とに分けることが出来ますが、後期艦については特に注意すべき点が有ります。
本型後期艦は、主機械にそれまでの「三菱・パーソンズ式タービン」ではなく「艦本式タービン」を採用しているのです。
ギアードタービンは「峯風型」にも採用されていますが、当時この技術はまだ国産化できていない最先端技術でした。
当時は各メーカーがそれぞれ独自に外国メーカーの機関を採用している状態だったのです。
しかしこれらのタービンは故障や事故が多く、一時は「峯風型」の数隻が煙突を取り払い、修理のために機関を揚陸することもあったほどです。 これではいざと言う時に使用できる駆逐艦がなくなることにもなりかねず、海軍を相当悩ましたようです。
結局海軍は、艦政本部設計の「艦本式オールギヤードタービン」を開発し、これを搭載することにしました。
ここに、「ロ号艦本式重油専焼缶」と「艦本式オールギヤードタービン」の国産機関が完成し、これ以後一部の例外を除き、この国産ペアがほぼ全ての日本駆逐艦に採用されることになります。
674金吾中納言:2007/05/31(木) 23:05:54 ID:p8ApeHK7
また後期艦にはもう一つ、特筆すべき点があります。
それは、爆雷兵装の装備です。
第一次世界大戦において初めて本格的に使用され、そしてあの大英帝国をして降服の寸前まで追い込めた画期的新兵器が、ドイツのUボート、つまり潜水艦です。
ドイツの潜水艦に悩まされたイギリスは、この被害を食い止めるために、対潜兵器、爆雷を開発します。
このドラム缶のような形をした不格好な新兵器、爆雷によって、イギリスは辛うじて継戦能力の保持に成功し、第一次世界大戦を勝利に終えています。
日本海軍がイギリスから爆雷兵器一式とその製造権を購入したのは、大正10年(1921年)のことです。
正式採用された八一式爆雷投射機は、「睦月型」と共に、本型の後期計画艦4隻に装備されることになりました。
これが、日本海軍駆逐艦として初の爆雷兵装の装備例になったわけです。
余談ですが、日本はイギリスの求めに応じて地中海にまで護衛艦を派遣し、そして実際に潜水艦による雷撃を受けて駆逐艦「榊」が大破するという損害まで出しています。
つまり日本海軍は、潜水艦の本質と、潜水艦による海上封鎖の恐怖と、海上交通路防衛の重要性を知っていたのです。
事実日本海軍は、第一次世界大戦の後の大正11年(1922年)、わざわざイギリスに新見政一少佐を派遣し、イギリスの最新鋭のシーレーン防衛体制を観察させていたのです。
軍令部参謀である新見少佐の報告書は、時の軍令部長にまで届き、軍令部長は重大な興味を抱いたと言われています。
にも関わらず、日本海軍は爆雷兵器の導入だけを行い、海上護衛戦思想とその統括機構を導入することは、遂になかったのです。
この失敗は、後に日本海軍の、大日本帝国の息の根を止める大失策となってしまったのです。

675金吾中納言:2007/05/31(木) 23:12:03 ID:p8ApeHK7
この失敗は、後に日本海軍の、大日本帝国の息の根を止める大失策となってしまったのです。
本型は大正7年度計画で3隻、次の大正9年度計画で2隻の建造が計画されます。
更にその後大正12年度計画で4隻の建造が追加されています。
先の5隻と、後の4隻の計画年度の開きは、ワシントン条約の影響です。
1922年(大正11年)に締結されたこの軍縮条約において、八八艦隊計画案そのものの抜本的な見直しが行われたのです。
当初は八八艦隊の主力駆逐艦として27隻もの大量建造が計画されていたのですが、この軍縮条約の結果、9隻で建造を打ち切ることになったのです。
建造打ち切りの確かな理由については、自分は良く分かりませんが、大正9年に軍令部から61cm魚雷の実用化を急がせるような発表があったため、これが大きな原因の一つであろう事は容易に想像がつくところです。
従って本型は、日本の排水量1000tを超える大型駆逐艦で、53cm魚雷を最後に搭載したタイプとなったわけです。
ここで本型に対するワシントン軍縮条約の、もう一つの余波を挙げます。
それは本型の艦名のことです。
本型各艦も「峯風」のように「○風」という固有の艦名が用意されていました。
しかし本型は当初、前述のとおり27隻もの大量建造が計画されていました。
この結果、本型以後の駆逐艦に充てる固有の艦名に不足する恐れが生じたのです。
困り果てた海軍は、結局本型以降の駆逐艦に対し固有の艦名の使用を止め、「第一駆逐艦」というように、番号による識別法に変更してしまったのです。
この番号命名法は本型以後も存続し、「吹雪型」まで適用されています。
もっとも、この艦名は将兵にはすこぶる不評でした。
それまでの優雅な艦名に愛着を感じていた将兵も多く、番号名に殺伐とした感じがあり、これが好きになれないという心情もあったようです。
また日本海軍の駆逐艦は、平時には同型艦の多い駆逐艦の識別を容易にするために、駆逐隊番号を艦首に、駆逐艦名を舷側に書き入れていました。
番号表示になった艦名と、同じく数字で表す隊番号とが混同され易く、将兵に混乱を起こすことがあったことも問題視されたようです。
この番号艦名は、昭和3年8月1日に「神風」以下、各艦従来の命名基準に従った名称に変更されたのです。
676金吾中納言:2007/05/31(木) 23:15:35 ID:p8ApeHK7
これは、ロンドン軍縮条約(1930年・昭和5年締結)の影響によるものです。
この軍縮条約の主たる対象が補助艦艇の保有数の制限にあったことから、海軍は駆逐艦名に不足を生じるほど保有することが出来なくなったためです。

さて、太平洋戦争における「神風型」各艦は、旧式艦ではあるものの、まだ水雷戦隊を構成しており、緒戦から各戦線へ投入されています。
そしてその活躍ぶりは、新鋭駆逐艦に負けないものでした。
緒戦ではウェーク島攻略戦を始め、マレー作戦、アリューシャン作戦にも参加しています。
また、戦史上非常に有名な「第一次ソロモン海戦」に、本型の一隻である「夕凪」が、三川艦隊唯一の駆逐艦として参加しています。
しかし中期以降は本型の旧式化は隠すべくもなく、特に対空能力の著しい不足において、本型は第一線級の駆逐艦たる資格が奪われてしまいました。
そこで本型は「峯風型」と同様、船団護衛の任務に就くことになりました。
本型による護衛作戦は、一部では極めて好成績を修めました。
既に高速性能を失っていた「峯風型」とは異なり、本型の快速は敵潜制圧には非常に有効であったと言われています。
高速の駆逐艦が護衛に参加していると、潜水艦にとっては都合が悪いのです。
潜水艦は、潜水することで隠密性を発揮するのですが、反面潜水したままでは目標を追尾することや襲撃することが困難だからです。
第一次世界大戦のUボート戦の戦訓を日本で初めて取り入れた本型は、しかし姉妹艦9隻のうち4隻を潜水艦との戦いによって失ってしまったのです。
本型の奮闘は米軍も賞賛してはいるものの、旧態依然とした対潜兵器、そして古い戦術思想では、独潜ほどではないにしても最新鋭の装備と、ドイツから実戦で学んだウルフ・パック戦法を駆使する米潜水艦に対して、互角に渡り合うにはあまりにも非力だったのです。

677金吾中納言:2007/05/31(木) 23:20:14 ID:p8ApeHK7
神風(第一駆逐艦/第一号駆逐艦)
大正10年12月15日 三菱長崎造船所にて起工
大正11年12月28日 三菱長崎造船所にて竣工
昭和20年10月 5日 除籍。後に静岡県御前崎にて擱座、放棄

朝風(第三駆逐艦/第三号駆逐艦)
大正11年 2月16日 三菱長崎造船所にて起工
大正12年 6月16日 三菱長崎造船所にて竣工
昭和19年 8月24日 リンガエン湾にて、米潜の雷撃によって沈没

春風(第五駆逐艦/第五号駆逐艦)
大正11年 5月16日 舞鶴工作部にて起工
大正12年 5月31日 舞鶴工作部にて竣工
昭和20年11月10日 除籍。後に京都府竹野防波堤

松風(第七駆逐艦/第七号駆逐艦)
大正11年12月 2日 舞鶴工作部にて起工
大正13年 4月 5日 舞鶴工作部にて竣工
昭和19年 6月 9日 父島北東にて、米潜の雷撃によって沈没

旗風(第九号駆逐艦)
大正12年 7月 3日 舞鶴工作部にて起工
大正13年 8月30日 舞鶴工作部にて竣工
昭和20年 1月15日 高雄にて、空襲によって沈没

追風(第十一号駆逐艦)
大正12年 3月16日 浦賀船渠にて起工
大正14年10月30日 浦賀船渠にて竣工
昭和19年 2月18日 トラックにて、空襲によって沈没
678金吾中納言:2007/05/31(木) 23:25:35 ID:p8ApeHK7
疾風(第十三号駆逐艦)
大正11年11月11日 石川島造船所にて起工
大正14年12月21日 石川島造船所にて竣工
昭和16年12月11日 第一次ウェーク島攻略戦にて、陸上砲台の砲撃によって沈没

朝凪(第十五号駆逐艦)
大正12年 3月 5日 藤永田造船所にて起工
大正13年12月29日 藤永田造船所にて竣工
昭和19年 5月22日 父島北西にて、米潜の雷撃によって沈没

夕凪(第十七号駆逐艦)
大正12年 9月17日 佐世保工廠にて起工
大正14年 4月24日 佐世保工廠にて竣工
昭和19年 8月25日 ルソン島北西岸にて、米潜の雷撃によって沈没