日本人の先輩は何て恥ずかしいことをしてくれたんだ! 1
>>29 遅くなりましたが、少しレス内容を考えさせてもらっていました。
>どちらが有利に戦えるのかわからない奴が権力の中枢にいて欲しくない訳よ。
たまに各論的に、歴史の流れに意識した内容に触れておきましょうかね。
当時外交を担っていた松岡洋右、白鳥敏夫、大島浩が中心ですが。
1931年の満州事変〜1932年の国際連盟リットン調査団派遣前に、
松岡は衆議院議員に当選・外務大臣になった訳ですが、松岡に
対する支持が決定的とされたのは、ロンドン海軍軍縮条約を
締結してきた幣原喜重郎外相の「協調外交」批判においてです。
これを支持したのが他ならぬ当時の国民で、国内世論は完全に
対米英協調・対中内政不干渉に反発する方向に傾いていた。
この後は御存知の通り国際連盟脱退という流れになりますが、
総会での80分の十字架演説も閉会宣言前の退場も、決して国内の
士気を煽るためのパフォーマンスではなく、むしろ松岡は連盟から
絶対に脱退せぬ腹づもりだった。
連盟脱退に賛成していたのは白鳥敏夫(この当時外務情報部長)で、
対英米派の革新官僚だった白鳥は、リットン報告書を恣意的に日本を
否定するモノだという印象づけをして発表して世論を誘導したり、
森恪とともに当時の首相・犬養毅に訴えたりしていた。
どうも白鳥はバリバリの民族主義者だったようですね。
だが松岡は帰国するや否や、国民から絶対的英雄として歓迎された。
白鳥はそれに関し、脱退しない方針で連盟に向かった松岡が英雄視
されたのは心外だと漏らしたらしい。松岡自身は国民に対し、総会で
各国を説得できなかったことを詫びるコメントを出した位だったの
ですがね。
その後松岡は議員を辞職、1935年に満鉄に総裁として復帰しますが、
既にこの頃日本は満州事変の影響で英米同様ソ連との関係も悪化、
翌年にロカルノ条約を破棄しラインラントに進駐したナチス政権下の
ドイツと、ソ連共産主義の拡大を防ぐという共通の目的から
日独防共協定を締結します。
# 連盟脱退による国際的孤立化からドイツに接近、とは私は見ていません。
1938年に満州・朝鮮・ソ連が国境を接する張鼓峰で、
ソ連が満州領内に進入。日本軍と紛争に陥り(のちに停戦交渉成立)、
以後当時陸軍の一部の構想だった対ソの為の日独連携が現実味を帯び、
翌々年成立した第2次近衛内閣で外務相に返り咲いた松岡も、ドイツに
大いに期待を寄せることになります。これは松岡が、日独連携は米国に
対する牽制としても有効だと考えていたからでもあるようですが。
日独防共協定に際し、駐独武官としてドイツに派遣されたのが、陸軍
きっての親独派だった大島浩。政府も外務省も欧米情勢には立ち入らない
方針だった筈だが、大島は陸軍と国民の期待を背負い、ナチスの悪名高い
リッベントロップと交渉していました。この時駐伊大使だった白鳥も大島と
共に、事実上は完全に日本政府の訓令を無視する形で、ドイツそして
イタリアとの三国同盟締結に向いひた走っていた。
外相になったリッベントロップはソ連との不可侵条約をチラつかせ、
同盟締結の難航を恫喝するなど狡猾な交渉術を見せたが、独ソ接近の
可能性を逐一東京に打電していた白鳥とは対照的に、単純な迄に親独な
大島は、リッベントロップの発言を冗談と信じて疑わず、日本政府も
白鳥の報告を一笑に付していた。
こうして日本がノモンハン事件で再度ソ連の脅威に晒されていた
最中に、あからさまな日独防共協定違反である「独ソ不可侵条約」が
リッベントロップの手により締結されます。これには松岡も大島も
激怒したと言われ、時の平沼内閣は総辞職、白鳥も大使を辞任します。
けれどもリッベントロップはそれまで主張していた「対ソ」を
「対英」にすり替え、いとも簡単に大島を丸め込んでしまった。
そして1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻。
言うまでもなく第二次大戦の皮切りです。
ドイツ軍はフランスを降伏させ、次はイギリスという勢いだった。
ここから世論は、再度日独同盟を渇望したモノになり、近衛首相の下で
外務大臣に就任した松岡も、「独ソ不可侵条約」で裏切られたことも忘れ、
またも日独・そして伊も加えた三国同盟実現に向けてひた走っていった。
当然三国同盟の実現は、米英との決定的な敵対の危険性を孕む。
実際当時駐英大使だった重光葵は、冷静に現地の戦況、アメリカの援助、
英国民のモラールを分析してイギリスの不敗を確信、日本は絶対欧州戦争に
介入してはならないと警告していた。それでも松岡が独断で三国同盟締結に
踏み出したのは、三国同盟にソ連を加えた四国同盟の構想があったからで、
ソ連さえ同盟に参加させて四国同盟にしてしまえば、決定的アメリカと
渡り合えると考えていたからだ。
三国同盟実現後に厳しいアメリカからの経済制裁を受ける中、松岡は自ら
モスクワに飛び、日ソ中立条約を締結。モスクワ駅のプラットフォームに
見送りにきたスターリンが、まさかのちにヤルタ会談で秘密裏に対日戦線を
企図し、日ソ中立条約を踏みにじって南樺太・千島列島・満州に攻め入るとは
思っても見なかっただろう......。
結局ドイツがソ連と戦争開始したかどで、四国同盟構想はおろか三国同盟でさえ
危ういモノに変容したにもかかわらず、大島はなおも裏切られ続けたドイツを
信じ、事実に反するドイツ戦況有利の報告を日本政府に打電し続けた。
一方松岡は、自分で中立条約を結んで帰国したばかりだというのに、
「ソ連を攻撃せよ」と言い出す始末で、支離滅裂としか言い様の無い状態だった。
・・・以上を駆け足で振り返ってみても、欧米の黄色人種に対する差別意識や、
白色人種の国際的駆け引きの長い長い歴史を鑑みない日本人の人の良さで、
あの時代に勝ち馬に乗るのは無理だったのだろう。改めて無謀ことをした
モノだと思う。
そういう意味で、
>どちらが有利に戦えるのかわからない奴が権力の中枢にいて欲しくない訳よ。
には非常に頷ける部分はありますけどね。
白鳥も松岡も、死んでなおかつ今でも「富田メモ」で晒し者にされ、
大島・重光含めて丸ごと皆「A級戦犯」だったのですから。
ただ国内世論は、ただ単に白鳥が誘導したから対米英協調・対中内政不干渉に
反発しただけなのかというと、決してそうではないだろう、とは思うが。
長々と失礼。