137 :
@:
一九四五年(昭和二○年)八月六日、私が工場で就労中に、原爆か投下され
ました。私を含め就労中の教用工は全員吹き飛ばされ、多くの人達か負傷し
ましたが、私も顎に鉄の破片様のものが当たり、肉がえぐられるという負傷を
負いました。
被爆後、私は、兵士の指示により、同年八月一〇日頃工場の前でテントを張り、
救護活動に加わりました。その他の徴用工も救護活動に加わったが、三菱重工の
社員が指示していたことは全くありませんでした。
私は、同年八月一三日に、兵隊から罷災証明を交付してもらい、広島から徳山に
向かい、同所で一泊した後、下関に向かいました。その後しばらく下関に滞在し、
同年九月一三日頃、四名程の徽用工(水原出身者二名、平澤出身者二名)と共に
闇船を雇い、帰国しました。闇船の料金として四○円を支払った記憶があります