拉致事件を本音で語れ! 偽善排除 27

このエントリーをはてなブックマークに追加
123
当時は日帝支配の時代でしたから、普通学校では、日本の皇民化教育が行われて
いました。
毎朝授業が始まる前に全校生徒が集められて朝礼があり、その時に全員で
「皇国臣民の誓詞」の斉唱をさせられました。そして同時に「宮城遙拝」を
させられました。「皇国臣民の誓詞」とは、「われらは皇国臣民なり、忠誠を
もって君国に奉じん・・・と言う文章を声をそろえて言わされるもので、
天皇に忠誠を誓うと言う趣旨の内容でした。私は漢文を勉強していましたので
何とか意味はわかりましたが、ほとんどの生徒は何を言わされているか分から
ないまま斉唱していました。「宮城遙拝」とは東の皇居の方を全員向かされ、
「天皇陛下に向かって宮城遙拝」というかけ声に従って何も言わずに 深々と
お辞儀をするものです。この「宮城遙拝」についても意味をわからずにしていた
生徒がほとんどでした。また、週に一回、修身の時間に教育勅語を言わされ
ました。教育勅語は全員が暗記させられ、もし正確に言うことができなかったら、
水の入ったバケツを頭より上の高さに持ち上げられさせられて、長時間立たされ
るという罰を受けました。この教育勅語も意味の分からない生徒がほとんど
でした。ですから修身の時間はみんな嫌がっていました。

 
124:2005/03/29(火) 13:29:34 ID:7Os8Gh0E
私が普通学校に入学した三年生のときは、まだ学枚では私たちは朝鮮語で
話をしていました。週に一回朝鮮語の授業もありました。ただ授業の
多くは日本語の授業で、歴史も日本の歴史が教えられました。ところが、
四年生の時からは、朝鮮語の授業はなくなり、全部日本語の授業となり
ました。それだけではなく、学校で生徒同士か話をするときも、
朝鮮語を使うことが禁止され、日本藷を使うことが強制されるように
なりました。授業以外のときでもうっかりと朝鮮語を使うと、胸に付けて
いた名札を取り上げられます。そして、「これからは朝鮮語を使いません」
と先生に言わされてその名札を返してもらうことかできます。
しかしそうしたことが三回になると、今度は、掃除をさせられるという
罰を受けます。このようにして、私たちは学校においては全て日本語の
使用を強要され朝鮮語を奪われました。
125:2005/03/29(火) 13:31:29 ID:7Os8Gh0E
 私か一六歳か一七歳の時のことと思いますが、「創氏改名」ということ
で日本名を強制されるということになりました。私の家でも祖父や父が
どういう名前にするか相談し、「咸元」(みなもと)という名前にする
ことになりました。この名前にしたのは本来の私たちの名である「朴」
の本貫が「咸陽朴氏」であり、また私の家の一四代前に「元」という名の
将軍がいたのでこれをあわせて「咸元」という名前にしました。私たちの
名前まで何故変えなければならないのかとても納得できることでは
ありませんでしたが、もし「創氏改名」に従わなければ、役人から何度も
言われますし、また、学枚の手続き等で受け付けてもらえませんし、
また就職も満足にできません。また、配給を受けることもできません。
ですから、私たちの気持ちからすると本当に不本意でしたが、ほとんどの
人は「創氏改名」に従わざるを得ませんでした。このようにして私の
名前は、このときから「咸元昌煥(みなもとしょうかん)」とされること
になりました。
126:2005/03/29(火) 13:34:07 ID:7Os8Gh0E
このようにして私たちは、言葉も奪われ、名前も奪われ、全て日本のもの
を強制されることになりましたが、その他でも生活のすみずみまで日本の
支配を受けることになりました。
例えば、私たちの意志とは全く関わりなく、各家に神棚が配られそれを
家の中にかざるように言われました。そして、その神棚を拝めという訳
です。 神は天照大神だけだということで、他のキリスト教や朝鮮の
古くからの宗教は基本的には認められませんでした。
警察署の巡査は朝鮮人でしたが、警察所長や駐在所の所長は、
日本人でした。
朝鮮の役所は、「郡」の下に「面」という行政組織となっていましたが、
郡庁の長である郡守や、面庁の長である面長には朝鮮人が当てられて
いました。しかし、その下の会計などの重要な役職には多くの日本人が
ついていました。
このような形で私たちは常に日本人の監視と管理の下に置かれていました。

 
127:2005/03/29(火) 13:36:30 ID:7Os8Gh0E
また、経済生活の上でも大きな制約を受けていました。
まず、私たちが苦労して作った米や麦はまず地主にその半分を年貢として
おさめなけれなりませんが、そのあと残りの多くの穀物を面事務所に
供出させられていました。そしてその供出した米等の買い上げ価額も
通常の価額よりも非常に安い価額でした。また牛も供出の対象とされ、
割り当てられた頭数の牛を面事務所にわずかの対価で供出させられました。
その牛も雌牛の良質な牛を求められ、割り当てられた数の牛かいなければ
買ってでも供出しなければならず、そのときは高い金で牛を買って、
ごく安い金で供出に出さな ければなりませんでした
128:2005/03/29(火) 13:38:20 ID:7Os8Gh0E
農閑期である冬の間は、カマス(米をいれる袋)の供出が割り当てられて
いました。一冬に一家族八〇〇枚から一〇〇〇枚を越える数の割当でした。
カマスは、稲のワラを編んで作るのですが、この割当数は非常に厳しく、
朝の四時や五時頃から起きて、冬の同家族金員で必死に作りました。
また、私たちが徴用される少し前から、平澤の近くに設営されていた
日本軍の飛行場の建設のために勤労報国隊が組織され、それに動員されて
いった人たちも多くいました。また、徴兵や徴用で連れていかれた
人たちの留守家族は、農業の担い手がいなくなりますので、残された
人たちがその手伝いに行く等して助け合っていました
129:2005/03/29(火) 13:41:33 ID:7Os8Gh0E
私は、一九四四年九月、当時居住していました平澤郡浦升面新栄里から
徴用されました。当時私は数えでニニ歳、満で二一歳でした。私は、満で
二〇歳で結婚し妻とともに暮らしていました。
徴用当時の家族は、私の父母、弟四人と祖父母夫婦及び私の妻でした。
私の家族の仕事は、当時も農業であり、田が約七五〇坪、畑が約七五〇坪
の自己所有地を含む約四五〇〇坪の農地を耕作していました。家族のうち、
私の父とすぐ下の弟は、「勤労報国隊」に動員され、平澤郡の飛行場の
建設に従事させられていました。そのため、家の農業は私か支えとなって
おりました。私は、同年同月二〇日頃、突然、面の役人より、徴用令書を
示され、そのまま連行されて、平澤の松本旅館(日本人兵営)に宿泊させら
れ、翌朝地元の城東普通学枚の運動場に連れていかれました。
松本旅館では面の役人と警察官が監視している状況でした。城東普通学校の
運動場には、約一〇〇名の徴用された人達が集められ、ここで、日本人に
引き渡されました。その日本人の中には、二〜三人の三菱のマーク
ついた帽子をかぶっている人達がおり、彼らが指揮をとっていました
130:2005/03/29(火) 13:43:58 ID:7Os8Gh0E
右の徴用の際、私は、「留守中のことは心配しなくてもよい。給料の半分
を送金する。もし逃げたら家族が罰せられる。」と言われました。
松本旅館でも、また普通学校の運動場でも常に監視されており、
行動の自由は全くありませんでした。
その後、平澤から鉄道(貨車)で釜山に運ばれましたが、その間も貨車には
日本軍の兵隊が銃を持って監視し、三菱の社員も同乗していました。
釜山からは下関まで連絡船に乗せられ、下関から広島まで鉄道、広島に
ついてからは、観音町まで電車、後に徒歩で三菱重工広島機械製作所西
寮に着きました。そこでは一〇名程度の三菱の社員か待ち溝えていました。

131:2005/03/29(火) 13:47:04 ID:7Os8Gh0E
同製作所では、約一五〇〇名の朝鮮人徴用工がおり、これが一大隊となり、
その下に六つの中隊(一中隊二五〇名)、更にその下に一中隊当たり
三小隊という構成でした。大隊長、中隊長はそれぞれ日本人でしたが、
小隊長は朝鮮人徴用工か当てられていました。私も三菱重工の社員から
小隊長になることを命じられました。
私は、三菱重工の西寮(全部で五棟)に居住を命じられましたが、私が
配置された居室は、一二畳の広さでそこに一二人か収容されました(後に
私は小隊長として、六畳の部屋に移されました)。
 西寮は周囲が有刺鉄線で囲まれており、監視塔があり三菱重工の社員か
監視に当たっていました。


132:2005/03/29(火) 13:48:59 ID:7Os8Gh0E
 同製作所での就労は、毎朝午前六時に起床して班毎に点呼を受け、
午前七時に朝食の後、高等師範学校の学生が中隊長の命令に従って
約五〇名の朝鮮人教用工を工場まで引率し、工場で私たちを工場の係長に
引き渡す、という形で始まりました。就労時間は午前八時から
午後六時まででした。私は、鋳鉄工場での作業に従事させられました。
工場は、埋立地にあり、工場に出入りできる通路は一つしかなく、自由に
出入りできる状況ではありませんでした。
 休日は月に二回しか与えられませんでした。ただ、仕事が多いときは、
夜勤の残業があり、休日も返上することもありましたし休日に外出する
こともありましたが、外出時には、班長や小隊長、中隊長らが見張の
意味で付き添うことになっていました。


 
133:2005/03/29(火) 13:52:07 ID:7Os8Gh0E
 家族との通信は可能でしたが、検閲があり、安否の問い合わせ以外は
書くなと言われていました。右の内容以外の手続は送付を止められ、
賃金等の待遇のことや、家族に給料の半額が送金されているか等の内容は
記載できませんでした。一九四五年(昭和二〇年)二月頃からは戦況が
悪化し、手紙のやり取りも途絶えてしまい、家族の状況はよく分からない
状態となっていきました。

寮では朝鮮人徴用工だけが集められて収容されており、日本人労働者との
待遇面での格差がどの程度あったか、定かではありませんが、食事は粗末
で量も少なく、若い者はいつも腹をすかせている状況でした。