1 :
迷惑沖縄を切り離す会:
戦時中は本土防戦も出来ず日本人の赤恥、迷惑の極み
ツラを見るとドイツもコイツも日本人の顔じゃねえ
だいいち名前だっておかしい奴ばかり 日本人じゃねえ
尖閣諸島事件で中国が攻めて来りゃ 平気で「沖縄国独立」
ブチ上げて 日本を裏切り中国になびく奴ら それが沖縄
信用できねえ
2 :
朝まで名無しさん:04/10/06 22:33:42 ID:vAMXMkjn
3 :
朝まで名無しさん:04/10/06 22:34:01 ID:zb0CJvzS
>>1 お前は本土防戦も出来ず日本人の赤恥、迷惑の極み
ツラを見ると日本人の顔じゃねえ
だいいち名前だっておかしい 日本人じゃねえ
尖閣諸島事件で中国が攻めて来りゃ 平気で「沖縄国独立」
ブチ上げて 日本を裏切り中国になびく奴ら それがおまえ
信用できねえ
4 :
朝まで名無しさん:04/10/06 22:34:24 ID:pdTyjMRd
>1
乙
5 :
朝まで名無しさん:04/10/06 22:34:31 ID:/evJqfGY
6 :
巨珍ファン:04/10/06 22:35:13 ID:GoYExkh4
7 :
迷惑沖縄を切り離す会を切り離す会:04/10/06 22:35:43 ID:RqjDSjhg
迷惑沖縄を切り離す会の承認も得たことだし、
ついに独立、ヤター!!!!
8 :
朝まで名無しさん:04/10/06 22:37:00 ID:PbBrPFXE
9 :
朝まで名無しさん:04/10/06 22:37:54 ID:/evJqfGY
独立→台湾と連邦→新憲法と日米沖台安保条約→米軍が台湾にも駐留
これでもいいの?シナチク君(ぷ
>1
激しく乙!
スレ立てで疲れただろうから、そのまま永眠してくれ。
11 :
朝まで名無しさん:04/10/06 22:39:14 ID:z7WA2NW4
12 :
朝まで名無しさん:04/10/06 22:40:26 ID:97+aJleP
沖縄も日本の一部です!
>>1は自分がどれほど日本に貢献したか証明してから戯言言うべきだな。
14 :
朝まで名無しさん:04/10/06 22:41:30 ID:SH5DMVJ4
こんな糞スレが速報ヘッドラインになんでのるの?
>>1 基地外はママンのパイオツでも吸ってなさい。
中国に併呑される沖縄
「Voice」(平成9年、1997,10月号)
恵隆之介(ジャーナリスト)
沖縄県庁の目にあまる「中国土下座外交」の実態とは
政府は沖縄の反基地運動を鎮めるため沖縄振興という名目の特別補助を拡大している。
しかし沖縄県庁は、その金の一部をすでに中国に貢ぎ始めているにだ。一方、その中国
こそは、尖閣の海底油田を含め琉球列島を、太平洋進出の戦略拠点として虎視耽々と狙
っている。今後かかる沖縄を放置していると、わが国の主権が脅かされる恐れがある。
本論に入る前に、近代史における沖縄と中国との関係をまず述べておく必要がある。
歴史は繰り返す
明治10年、琉球王府は廃藩置県に反対し、在京の清国および列国公使に特使を派遣して
現状維持を愁訴した。清国はこれに応えて翌年わが国に抗議するとともに、明治13年、
琉球列島の三分案を主張してきた。一方政府は、清国に気兼ねしながら、沖縄近代化を
推進するため、琉球王に旧大名四十万石担当という破格の家禄を与えて、旧琉球王府の
支配者層を壊柔しようとした。ところが、彼らは既得権を固守することしか念頭になく、
政府は焦燥に駆られていた。
明治27年8月1日、日清戦争が勃発する。沖縄では県民が清国派と日本派に分かれ、双方
で乱闘事件さえ起こしていた。とくに清国派は旧士族階級が多く優勢であったため、徒党
を組んで神社仏閣に参拝し、清国の勝利を祈願した。また県民のなかにも「黄色い軍艦が
沖縄へ救援に来る」という流言が横行した。そこで県内に居住する他府県人は万一に備え、
自警団を組織し、かつ子女を本島中部の山間に疎開までさせた。
しかし、ここで大きな転機が訪れる。清国の敗北である。そこで政府は、3年後の明治
31年、沖縄へ徴兵令をようやく施行した。このとき、かつての清国派の一部は中国へ逃亡
する。明治32年、『大阪朝日新聞』に「琉球人福州に寄食す」という見出しで清国政府の
厄介になっている県民が批判されているのだ。
琉球王府が中国に傾斜したことには訳がある。この点がまた、琉球王国が国家としの
レジテマシーに欠ける部分でもある。
琉球は14世紀ころから明国に朝貢するようになった。そして琉球王は中国皇帝の冊封を
受ける。朝貢貿易の返礼は「唐一倍」と呼ばれ、琉球王府は十割近い儲けを亭受するよう
になった。また1491年に即位したとされる尚真王は、権力基盤を確立するため沖縄に身分
制度を設け、刀狩りを行い、有力士族には家禄を与えて王府首里に住まわせた。
ところが民衆は「地割制」というシステムに組みこまれ農奴と化する。土地私有はいっ
さい禁じられ、一定年限ごとに村落ごと耕作地を交代させられた。さらに離島農民へは
人頭税が課せられ、本島農民の三倍以上という重税が課せられた。
しかし琉球の実質的統治者は、じつは琉球人ではなかった。これこそが中国移民、客家である。
琉球では彼らを唐栄と呼んだが、王府首里城では、旧正月に琉球王がこの唐栄の号令に
従って、北京の柴禁城の方角に向い三跪九叩の礼を行った記録もある。また、かつて琉球
王国は広く海外交易に従事したと流布されているが、県民性にはそういった特性は見いだ
せない。明治34年8月、地元出身、漢那憲和海軍中尉(のち少将、大正10年昭和天皇皇太子
時代、欧州御外遊時の御召艦艦長)が那覇で行なった講演で、「本県人が海に心を掛けて
いるのは、一部分の糸満はあるけれども一般は冷淡で海を恐れること甚だしいと述べている。
琉球の海外交易の話は、この客家の存在で十分説明がつく。また沖縄民俗学の祖といわれ
た伊波普猷氏も「廃藩置県は半死の琉球王国が破壊されて琉球民族が蘇生したのは寧ろ喜ぶ
べきことである」と述べているのだ(『沖縄新聞』明治42年12月)
話は昭和に転じる。
昭和21年、沖縄出身の日本共産党書記長・徳田球一氏が党大会において「沖縄民族は少数
民族であり歴史的に搾取、収奪された民族である」と発言し、沖縄独立論を唱導した。
またその前年、沖縄人連盟が東京で発足(会長、伊波普猷氏)。そのテーゼに「朝鮮人連盟
と連帯する」というテーゼが採択され、連盟の会員は一時、いわゆるポツダム・マルキスト
を含め全国に7万人を数えた。そしてこれを見た当時のGHQまでもが、「沖縄返還にあたって
は、日本復帰か独立か住民投票にかける」と公言したのである。
以上、現在とまったく異なった琉球史の真相を吐露したが、昭和40年代初頭より琉球史が
本土への極端な抵抗史観的視点で描かれるようになった。そこには、本土復帰運動が活発に
なるかで、敢えて反日的な気運を醸成するための策動があったことも否定できない。
従来、沖縄の復帰運動は米軍政府に対し国旗揚揚、国家斉唱の自由を求める純粋な民族
運動から出発した。ところが、昭和42年ころから過激なイデオロギー闘争に変質し、反米軍、
反日といった色彩が強くなっていったのである。
http://www.cosmos.ne.jp/~ryunosuk/jp/jno13.html
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ