724 :
tooo ◆s/lQJB6p9w :
>>707 貴君は、戦争の責任を、天皇という個人の全責任に、帰着させようとする意志がお強いようだが、
以下、竹山道雄の『昭和の精神史』(講談社学術文庫)から長い引用をしておこう。
外には満州事変がはじまっていた。内には経済の不調や思想の混乱や社会の動揺がつづいて、
センセーショナルな危機感がくる年ごとに叫ばれた。
緊迫した半面に弛緩した、異様な変調な雰囲気がみなぎっていた。
関東震災を一つのエポックとして、それまでは思いもよらなかった新しい社会相が現出した。
突如としてひらけた近代生活に対しては、むかしから日本人がもっていた良識や節度はふしぎなくらい無力だった。
あのころは、世上に既成体制に対する不満が一杯だった。
見るもの聞くものが、政党・財界・官僚に対するはげしい呪詛だった。
私はさる大新聞の寸言欄に、「世界に三つの悪がある。アメリカのギャングと、シナの軍閥と、日本の政党である」と
書いてあったのを覚えている。こうしたことは数かぎりがなかった。
旧日本は言論が不自由だったと今は信ぜられているが、やがて拘束がはじまるまでの一頃はそれどころではなく、
きわめて破壊的だった。くる日もくる日も、辛辣に、手軽に、巧妙に、無責任に、揶揄し罵倒する言葉をきいて、
すべての人々の頭にそれがしみ入った。
しかもなお、乱闘、汚職、醜悪な暴露・・・・・はあきれるほどつづいた。
分裂と混乱は見込みがないと思われた。
軍人の政党に対する不信反感は非常なもので、これは最後まで消えなかった。
725 :
tooo ◆s/lQJB6p9w :04/07/02 20:36 ID:TN2oRABs
インテリのあいだには左翼思想が風靡して、昭和のはじめは「赤にあらずんば人にあらず」というふうだった。
指導的な思想雑誌はこれによって占められていた。若い世代は完全に政治化した。
しかし、インテリは武器をもっていなかったから、その運動は弾圧されてしまった。
あの風潮が兵営の厚い壁を浸透して、その中の武器をもっている人々に反映し、
その型にしたがって変形したことは、むしろ自然だった。
その人々は、もはや軍人としてではなく、政治家として行動した。(・・中略・・)
いかに陰謀的な旧式右翼がいたところで、それだけで若い軍人が「青年将校」になることはありえなかった。
これを激発させたのは社会の気運だった。
このことは、前の檄文(=二・二六事件の蹶起趣意書)の内容が雄弁に語っている。(・・中略・・)
青年将校たちは軍人の子弟が多く、そうでない者もおおむね中産階級の出身で、
自分は農民でも労働者でもなかった。
それが政治化したのは、社会の不正を憎み苦しんでいる人々に同情する熱情からだった。
インテリの動機とほぼ同じだった。
ただ、インテリは天皇と祖国を否定したが、国防に任ずる将校たちは肯定した。
ただし、かれらが肯定した天皇と国体は、既成既存の「天皇制」のそれではなかった。
私は一人の青年将校を知っていた。職業軍人ではなくて教師だったが、つねにはげしい調子でブルジョアを攻撃していた。
この人にすすめられて、教典の一つである権藤成卿の『自治民政理』を読んだ。
これは、日本上古の社会を理想としつつ、農業中心の共産制度を主張しているものだった。(・・中略・・)
そして、この将校が熱心に説く国体明徴をきくと、そこに思いうかべられている一君万民の天皇とは、
国民の総意の上にたつ権力者で、何となくスターリンに似ているもののように思われた。
726 :
tooo ◆s/lQJB6p9w :04/07/02 20:37 ID:TN2oRABs
あのいたるところに腐敗した現象がはびこっていた時代に、軍人だけは純潔だと考えられていた。
(そして、事実利欲に関しては純潔であったのだろう。戦後に極東裁判の調査官たちは、
ナチスの巨頭とおなじようなつもりで軍の巨頭たちの財産をしらべたところが、その貧しいのにおどろいた。)
満州事変はその自信をたかめた。国民は「軍に感謝」し信頼した。
この気持は、テロが相つづき軍の横暴が誰の目にもあきらかになり前途の不安が予感されるに及んで消えたが、
そのときには軍はもはや圧倒的な力を確立していた。
この「国を救う者は自分たちだけである」という自信が、軍の独立を主張させるにいたったつよい動機だった。
この自信と信頼を端的に示したのは、五・一五事件の裁判だった。
白昼首相を殺した軍人の徒党が、軽い刑ですんだ。明治時代だったら考えられないことだったろう。
(封建時代には、赤穂浪士は切腹させられた)。
また、政治悪を憤慨する世論の背景がなくては行われないことだったろう。世人はその動機の純真に同情したのだった。
(・・中略・・)
青年将校たちは「天皇制」を仆そうとした。しかも、天皇によって! (・・中略・・)
天皇が悪しき「天皇制」の首となっているのは、天皇と民との中間に介在するものがいて、
その聖明を覆うからである。これを芟除すれば、歴史の悪しき段階は克服され、
民を苦しめる「天皇制」の暗雲ははれて、天皇の光はただちに四民を照らすであろう。
そして、この革命を遂行することは天皇の意思であり、「これこそ聖旨に添い奉るもの」である。
革新派の軍人が考えていた「国体」は、「天皇制」とはあべこべのものだった。
727 :
tooo ◆s/lQJB6p9w :04/07/02 20:37 ID:TN2oRABs
このころには、天皇は二重の性格をもっていた。
その第一は、政党・財閥・官僚・軍閥の頂点にあって、機関説によって運営される。
いわばイギリスの王のようなものだった。(・・中略・・)これをかりに天皇の機関説的性格とよぶことにする。
その第二は、御親政によって民と直結して、平等な民族共同体の首長であるべきであり、
国難を克服する、国家の一元的意思の体現者だった。一部軍人はこの性格の天皇を奉じた。
これは、それから後の対外的危機の度がすすむにつれて、その軍事的な面のみが強調されるようになった。
そして、かれらは統帥権を手がかりとして自分の立場を強化しようとして、ついにそれに成功した。
これをかりに天皇の統帥権的性格とよぶことにする。(・・中略・・)
昭和の動乱には、この二つのものがからみあい争いあった。
ついには後者が前者を圧倒してしまったが、しかしまったく消すまでにはいかなかった。
軍は天皇の第二の性格を生かして自分のものにすることによってその目的を遂げることができたので、
制度としての革命はついに行われず後者は前者の形式(重臣の奏請や議会の決議など)を通じて実現した。
何よりも戦争の大きな圧力があって、すべては最後まで合法的だった。
(・・中略・・)その開戦の詔勅にも「豈(あに)朕が志ならんや」とて、
これがまだ機関説的天皇制の声をかすかに残していた。そして、終戦の決定は、(・・中略・・)
ようやく機関説的天皇制が息をふきかえして統帥権的天皇制を抑えたのだった。
このように天皇の性格が二重のものとして作用していたということは、裕仁天皇自身の意思とは別だった。
裕仁天皇はつねに合法的に合慣例的に、機関説的態度に終始した。
その局にあたる責任者の言をきいて自分のイニシアティヴをとらないという、原則をつらぬかれた。
じつに、統帥権に関することがらについてすら機関説的態度に終始して、
忠言暗示をあたえることはあっても、軍に関することは軍の責任者の言にきいた。(・・中略・・)
つまり、統帥権的天皇とは、結局の事実としては中堅将校のことだった。
裕仁天皇は、例外的に、ただ二度だけ機関説的性格をすてて、御親政をとられた。
それは二・二六事件の際と終戦の際だった。(・・中略・・)