南京大虐殺はあったの?何万人殺ったの?13万

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4朝まで名無しさん
 「平頂山事件」(へいちょうさん・じけん)とは
http://www.h5.dion.ne.jp/~mikawak/kyouikushiryou/heiwanotabi1.htm
 1932年9月16日、日本の関東軍(かんとうぐん)撫順(フーシュン)守備隊や憲兵、
警官などが中国遼寧省撫順市郊外の平頂山高台の下にある平頂山村民約3000人を虐殺した事件です。
 この事件には、日本軍6個小隊約190人が出動。牧畜用鉄線でふさがれた逃げ場のない平頂山東側の崖下に、
「写真を撮るから」と、村民を集め機銃掃射を浴びせました。
 虐殺は、機銃掃射のあと、さらに「生存者を一人一人死体を踏み分けながら、銃剣で刺殺していく」というものでした。
そして、さらにガソリンで焼き、崖を爆破して埋めたことが証言や発掘などで明らかになっています。
 これは、当時の日本軍独立守備隊第中隊長川上精一大尉の「村民が、匪賊(当時、日本軍は日本の支配に反対する抗日中国人を、
このように呼んでいました。)と通じているから、村を焼き尽くし、皆殺しにする。」という意見で実行されました。
 日本の敗戦後、国民党政権下で、敗戦時の責任者ら7人が加害者として裁判の結果処刑されましたが、
真の首謀者である川上大尉らは日本に逃亡。川上は1949年6月に自殺しました。
 現在、証言にもとづいて発掘された記念館内には、長さ80m、幅5mの「骨池」があり、
遺体の一部800体が展示されています。当時の事件で生存者は34人とのことでした。
5朝まで名無しさん:04/02/13 11:50 ID:eVKlDPTF
マレーシア住民虐殺事件
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~hirofumi/gallery.mal02.htm
マレーシア
ネグリセンビラン州 日本軍による住民虐殺があった村々

パリッティンギ、
1942年3月16日、日本軍によって村民600数十人が虐殺された。

セナリンなどクアラピラ県
 1942年3月10日クアラピラの南にあるこの村の中心で商売をしていた4家族20数人はクアラピラに連行され、虐殺された。

スンガイルイ
1942年8月30日村民300数十人が虐殺された。

http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~hirofumi/gallery.mal01.htm
マレーシア
 ネグリセンビラン州 イロンロン(ジュルンドン)とその周辺

1942年3月18日 日本軍によって村民約1000人は虐殺され、村は焼き払われた。

ババル島事件
http://www.fujishuppan.co.jp/kindaishi/15nen2.html
ババル島事件関係書類
 本書は「閲覧ヲ禁ズ」と表しに記された参謀本部の極秘報告書・原題「「ババル」島事件関係書類綴」の復刻版である。
 太平洋戦争末期の昭和19年11月、日本占領下のババル島(現在インドネシア領)で、
日本軍第五師団部隊が非戦闘員の住民400人以上を虐殺し、ひとつの村を消してしまった事件の事実が明らかとなった。
 本書は、敗戦後42年にしてようやく明るみに出た事件の状況を知らせるだけでなく、戦争犯罪追求を恐れた当事者が、
虐殺を「原住民の反乱」とでっちあげるために報告書の内容を変更してゆく過程が克明に記録されている。
6朝まで名無しさん:04/02/13 11:51 ID:eVKlDPTF
インドネシアでも虐殺に狂奔する日本皇軍
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/4551/ciner02.htm
連合軍の反撃の前にインドネシア住民が連合軍に通じているのではないかと疑心暗疑になった日本軍は、
ポンティアナ事件やババル島事件のような住民虐殺を引き起こしていった。
ボルネオ島西海岸のポンティアナでは、独立国家建設を計る抗日陰謀事件だとして、
一九四三年から翌年にかけて約一五〇〇名を検挙し、処刑した。
チモール島の東のババル島では、食糧やタバコの強制的な供出を強いられ、横暴な日本軍に耐えかねた島民が蜂起し、
山に立てこもった。日本軍の呼びかけに山を下りてきた島民を日本軍はまとめて射殺した。
犠牲者は七〇〇人とも四〇〇人とも言われている。日本軍の過酷な占領に対する激しい抵抗も次々に起きた。
その代表的な事件が、一九四五年二月に起きたブリタル(東部ジャワ)の郷土防衛義勇軍による反乱である。
日本軍による食糧やロームシャの厳しい徴発、横暴な態度に怒ったブリタルの義勇軍が反乱を起こしたが、
数日後に日本軍に鎮圧された。日本軍に訓練されたこの義勇軍の反乱はインドネシアでは高く評価されている。
反乱の指導者スプリヤディは行方不明になったが、その栄誉を讃えて独立したインドネシア共和国の初代国防大臣に任命された。
このように日本軍の支配の矛盾が各地で噴き出していった。

 日本軍の下で独立の準備を進めていたスカルノなどの指導者は日本の敗戦後の八月一七日に独立宣言を発表し、
オランダとの独立戦争に備えることになる。

 インドネシアのあるジャーナリストは次のように言っている。
「日本人の中には、いまだにインドネシアの独立は日本の援助によってなされたのだ、
と公言してはばからぬ人がいる。違う!私達は自ら闘ったのだ。
あらゆる障害と闘って、独立を克ち得たのだ。」(ヘラワティ・ディア)
7ポンティアナ事件:04/02/13 11:53 ID:eVKlDPTF

http://www.borneo.ac/pontianak.htm
日本軍占領下の西部ボルネオ(現、インドネシアの西カリマンタン)のポンティアナ(Pontianak)で、
現地住民が日本軍民を毒殺し、西ボルネオ共和国を樹立するとゆう反日陰謀を計画したとされ、
日本海軍の特別警察隊(陸軍の憲兵隊に代わる組織)により住民が大量に検挙・処刑された事件である。

ポンティアナは、1942(昭和17)年1月29日、日本軍(陸軍川口支隊)により占領され、
当初は陸軍が佐官級の軍人を軍政支部長に任命し軍政を担当させた。
この地域の軍政支部長として和泉末松陸軍少佐が着任した。
和泉は退役陸軍少佐で、戦前英領北ボルネオのタワオで和泉商店を経営していたが、
日本軍の北ボルネオ進攻により現役に復帰し、ポンティアナ軍政支部長に任ぜられた。
陸軍の軍政時代を現地住民は「星(陸軍の徽章)の時代」と呼び、軍政に協力的であったようである。

1942(昭和17)年7月15日陸海軍の協定により、旧オランダ領であった当該地域は海軍に委譲され、
同月海軍の第二十二特別根拠地隊から上杉敬明海軍中尉以下、
将校・下士官・兵約200名がポンティアナに警備のため派遣された。
警備隊は、直ちに山本惣一海軍少尉を長とする特別警察隊(隊員10名、現地情報員数名)を組織した。
1943(昭和18)年6月に南ボルネオのバンジェルマシンで、ハガ(オランダ総督)による抗日事件が摘発された。
同年10月には北ボルネオのアピ(現、マレーシア・サバ州のコタ・キナバル)で日本人が虐殺されたアピ事件が発生した。
ポンティアナ事件の第一次(約100名)検挙は、このアピ事件の直後に行われている。
8ポンティアナ事件:04/02/13 11:53 ID:eVKlDPTF
その翌年の1944(昭和19)年1月に第二次(約120名)、2月に第三次(約100名)検挙が行われた。
また6月には軍法会議で、47名に対して死刑が宣告され即日銃殺刑が執行された。
同年9月には第二次ポンティアナ事件が発生し、華僑の有力者約130名が検挙された。
(検挙者数は井関恒夫著『西ボルネオ住民虐殺事件』による)これら検挙者は、マンドールの地で処刑された。
マンドールはポンティアナの北、車で行くと約1時間30分の場所にあり、1977年に建立された慰霊碑がある。
その慰霊碑の銘板によると処刑された現地住民数は2万1037名とされている。
特別警察隊の通訳を務めた井関『同』によると処刑者総数1486名とされている。
敗戦後、ポンティアナ事件の責めを負い第二十二特別根拠地隊司令官醍醐海軍中将、
鎌田海軍中将、上杉警備隊長、山本特別警察隊長他が戦犯として処刑された。
9朝まで名無しさん:04/02/13 11:53 ID:eVKlDPTF
フィリピン
リパ虐殺事件、マニラ市街戦における虐殺事件
http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/apwar/1994sekai.html
ルソン島南部リパの虐殺事件やマニラ市街戦における虐殺事件など、
婦女子を含む非戦闘員に対する日本軍の残虐行為が戦争末期に多発したことも
フィリピンの戦争被害の大きな特徴であった。
米極東軍に登録したUSAFFEゲリラをはじめとする抗日ゲリラの掃討に苦慮した日本軍が米軍再来を前に
戦闘員・非戦闘員の区別の無い粛清をはかったことが主な原因であったが、それだけでは説明のできない、
日本軍将兵の道徳心の崩壊と狂気の結果と言わざるを得ない事例も多い。
このほか戦争末期には、敗走する日本軍の食糧強奪による山岳少数民族の飢餓や
日本軍による人肉屍食の被害なども発生した。
また、3年にわたる日本軍占領下(1942-45年)でも、
多くのフィリピン人がスパイ嫌疑などによる弾圧・粛清の犠牲となり、
「民生への重圧を厭わず」を原則とした日本の占領政策(転作強制、米徴発など)のもとで
フィリピン経済は壊滅的打撃を受けた。

このようにフィリピンは、戦争の全期間を通じてあらゆる種類の戦争被害の犠牲となった。
フィリピン政府の戦後の推計によれば、民間人死亡者総数は111万1938名(ちなみに1939年国勢調査人口は約1600万人)、
賠償請求の基礎として算出された戦争被害の総額は161億5924万8000ペソ(1950年価格・約80億8000万ドル)にのぼった。
被害総額の内訳は、物的損害が約58億5000万ドル、
人命損害(民間人死亡者総数に1500ドルを乗じたもの)が約16億7000万ドル、
軍票支払いを含めた供出財・サービスが約5億6000万ドルであった。
10朝まで名無しさん:04/02/13 11:54 ID:eVKlDPTF
シンガポールでは4〜5万人が虐殺された
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper41.htm
アジア太平洋戦争における最初の大規模な残虐事件は、シンガポールの華僑虐殺だった。
1942年(昭和17)2月15日にシンガポールの英軍が降伏し、マレー半島全土を日本軍が占領下においた。
その直後、第25軍司令官山下奉文は「最も速かに市内の掃蕩作戦を実施し、
これ等の敵性華僑を剔出処断」せよという命令を下した(河村参郎『十三階段を上る』亜東書房)。
憲兵隊を中心としたシンガポール警備隊が市内の、近衛師団が市内を除くシンガポール島を担当、
18歳以上50歳までの華僑男子は21日までの指定された場所に集まるように布告が出された。
各検問所では簡単な尋問がおこなわれただけで、「抗日」とみなされた者はトラックに乗せられて郊外の海岸などの運ばれ、
機関銃で射殺された。この粛清の事実上の首謀者だった軍参謀辻政信は検問所をまわって、「何をぐずぐずしているのか。
俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」と憲兵隊を激励してまわった(大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版)。
この粛清を指揮したシンガポール警備隊長河村参郎の日記には、粛清の途中の23日に憲兵隊長を集め、
そこで「処分人数総計五千名」と報告を受けたことが記されている。

戦後、日本軍関係者が作成した文書では約5000人を「厳重処分」(裁判にかけずに直ちに処刑すること)したとしている。
シンガポールでは4〜5万人が虐殺されたとされている。
11朝まで名無しさん:04/02/13 11:54 ID:4wgoXj+0

フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。
フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで
7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。
米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。
バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」
「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。
バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、
証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。
そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。
フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。
12朝まで名無しさん:04/02/13 11:55 ID:4wgoXj+0
ビルマ‐カラゴン事件
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper41.htm
ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。
パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、
女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、合わせて600人以上を虐殺した。
現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、
もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。

アンダマン・ニコバル虐殺事件
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/16review.htm
インド洋にあるアンダマン・ニコバル諸島(インド領)のなかの一つの島カーニコバル島には日本の陸海軍が配備されていたが、
連合軍の反攻の前に孤立し、英機動部隊による三度にわたる空襲を受け緊迫した状況下におかれた。
そうしたなか一九四五年七月から八月にかけて島民八〇数名をスパイ容疑で逮捕し処刑するという事件がおきた。
安田軍属は通訳として島に駐留し、逮捕した島民の取り調べにあたった。
日本側の資料によれば島民がスパイ活動をおこなったので彼らを逮捕し軍律会議にかけて銃殺したというものだった。
論者によっては(茶園義男氏)、対日協力者が戦後、自分の身を守るために事実無根の事件をでっち上げ、
イギリスは報復のために利用したという議論さえある。

日本側関係者の証言から、軍律会議は開かれておらず裁判なしで島民を処刑したこと、しかも銃殺というものではなく、
銃撃、銃剣刺殺、首の試し切り、軍医による肝臓摘出などきわめて残虐な虐殺であったことを明らかにした。
13朝まで名無しさん:04/02/13 11:55 ID:4wgoXj+0
重慶大空爆
http://www.anti731saikinsen.net/jukei/kou.html
 私は「重慶大空爆」という歴史的事実を思い出す度に、心が痛み、悲しい気持ちでいっぱいになります。
1937年抗日戦争初期、わが国の上海、南京、武漢は、日本侵略軍に相次いで占領され、
1938年には、国民政府は長江に沿って次々と敗走し、やむなく重慶に遷都しました。
その後、重慶という都市は、日本政府にとって「中国の抗日戦争意志をぶち壊す」
「空爆によって降伏させる」という戦略計画を実行する為の、最も主要な空爆目標となりました。

統計によると、日本軍は重慶に対し、218回の空爆を実施し、
9,513機の飛行機を出撃させ、21,593発の爆弾を投下しました。
この空爆によって、重慶市区はほどんど廃墟となり、死傷者は2.5万人余りの数に上り、
財産と家屋の損失においては数え切れないほどの甚大な被害を受けました。

この被害の数値は、第二次世界大戦期間中、及び全ての人類史において、記録的数値です。
日本軍事評論家前田哲男氏も「一つの都市に対して、こんなに長期的に強く攻撃し続けたことは、
航空史初めてのことである」と認めました。
14朝まで名無しさん:04/02/13 11:56 ID:4wgoXj+0
「バターン死の行進」
http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/1937_45_4.html
 戦後、連合国は極東国際軍事裁判(東京裁判)において、日本軍の占領地での非人道的な行為に対し訴追を行った。
そのなかでも特別に項目立てされたものが、南京大虐殺、泰緬鉄道建設にかかわる虐待行為、
そしてフィリピンにおける虐待行為であった。同島での枚挙に暇もないほどの残虐行為が挙げられた中に、
いわゆる「バターン死の行進」がある。

 1942年4月9日、日本軍はフィリピンのバターン半島を制圧し、米兵1万2000人、
フィリピン兵6万4000人が捕虜となった。 彼らは約3カ月間の籠城で食糧が欠乏し栄養失調であったのに加え、
ほとんどがマラリアなどの熱帯病により極度に衰弱していた。
バターンから鉄道のある北方のサンフェルナンドへ、約60kmの道を炎天下、徒歩行進を強要されたのである。
さらに目的地オードンネル収容所に向かって貨車に詰め込まれて運ばれた。

 東京裁判の証人台に立った生存者の証言によると、行進中、日本軍による水・食糧、
あるいは薬の支給はほとんどなく、彼らが得た食糧はフィリピン人が彼らに投げ与えてくれたものか、
畑から勝手に取ったサトウキビなどで、水は道路の両側の溝や井戸から取ったものであり、
そのような水を飲んだ者は赤痢にかかるのが普通であったという。
しかも列を離れ井戸や畑に行った捕虜や、食糧をくれたフィリピン人の中には日本兵によって殺される者もいたと回想している。

 東京裁判に先立ち行われた、マニラ軍事法廷での戦争犯罪裁判の「起訴事実」によると、この行進中、
米人1200人およびフィリピン人1万6000人の捕虜が、死亡または行方不明となったとしており、
フィリピン攻略作戦を担当した第14軍司令官・本間雅晴中将は、バターン他フィリピン各地で、
日本軍将兵に残虐行為および重大犯罪を犯すことを許し、指揮官としての義務を怠ったという理由で、
1946年4月3日銃殺刑に処せられた。
15朝まで名無しさん:04/02/13 11:57 ID:4wgoXj+0

泰緬鉄道とクワエ川鉄橋の歴史
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hibi00/history.html
 別名を“死の鉄道”(DEATH RAILWAY)といわれる泰緬鉄道は、第二次世界大戦に海上シンガポール経由で
ビルマ・インド戦線へ軍需物資を送ることが困難になりつつあった日本軍にとっての、
内陸部を通る新しい輸送路として計画されました。同盟国のタイからビルマへとジャングルを抜けて走る
総全長415Km(タイ側263Km、ビルマ側152Km)にわたる鉄道は、1942年(昭和17年)9月16日タイ側の
ノンプラドックにおいて建設が開始されました。この難工事には、約3万人の連合軍捕虜兵士、
10万人以上のアジア人強制労働者(中国、インドネシア、ビルマ、マレーシア、インド、シンガポール、タイ)が投入され、
そのうちの捕虜約1万6千人、そしてアジア人労働者10万人のほとんどすべてが、
熱帯のジャングルのさまざまな疫病にかかり、医療品の不足などで死亡しました。

http://www.jtu-net.or.jp/library/zissen/nk1002.htm
 泰緬鉄道とはアジア太平洋戦争中の1942年から43年にかけて、日本軍がインド攻略のためにタイから
ビルマ(ミャンマー)にかけて建設した鉄道で、全長415キロメートル。
かつてイギリスが鉄道建設を計画したが、雨期には土砂降り晴れれば極熱のジャングル地帯で
疫病の巣でもあることから断念したという。
日本軍はイギリス・オランダ・オーストラリア人の捕虜とミャンマー・インドネシア・マレーシアなどの
労働者を動員して突貫工事をおこない16カ月で開通させたが、捕虜に約13,000人、
労務者に約33,000人の死者を出したという。(全部で80,000人とも言う。)
「ロームシャ」は東南アジアで今も通用することばである。
食糧も医薬も不足する中で病人までも労役に駆り立てた捕虜収容所の管理責任者の多くが戦後、
B・C級戦争犯罪人として罪を問われ、死刑になったり長く服役させられたりしたが、その中には朝鮮人軍人も含まれていた。
16朝まで名無しさん:04/02/13 11:58 ID:4wgoXj+0
挙げ句の果てに、日本軍は日本人にまで牙を剥いた・・・。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper41.htm
ところで、こうした日本軍の残虐行為はアジア民衆に対してだけでなく、
日本人に対しても向けられた。その最初はサイパン戦だった。

サイパンには約2万人の日本の民間人が残っていたが、その半数が1944年6月から7月のサイパン戦で犠牲になった。
サイパンに住んでいた日本人の約6割は沖縄県出身者であった。この戦闘のなかで、
逃げ込んだ洞窟のなかで泣きやまない赤ん坊を殺害したり、親子ごと洞窟から追い出したり、
米軍に投降しようとした民間人を射殺するなど日本軍による残虐行為が頻発した。
また民間人の投降を許さず「自決」を強要するなど、後の沖縄戦で見られる状況がほぼすべてこのサイパン戦で現れていた。

さらに1944年10月から米軍の反攻が始まったフィリピンでは、ここにも多くの日本人移民がおり、
太平洋戦争開戦前にはその約7割が沖縄県出身者であった。
ミンダナオ島では米軍の上陸により山中に追いやられた日本兵による日本人からの食糧強奪や殺害がおきたし、
パナイ島では日本軍とともに逃避行を図ったが、付いていけない民間人たちは「自決」を強要され、
残された傷病兵の手によって手榴弾や銃剣によって殺された。
17朝まで名無しさん:04/02/13 11:58 ID:4wgoXj+0
こうした状況がさらに大規模に生まれたのが沖縄戦であった。
http://kyoto-getto.hp.infoseek.co.jp/okinawa/war/war2/war2f.html
沖縄戦を生き延びた沖縄の人々に、後に行ったアンケートの中で「日本兵と米兵のどちらが怖かったか」という問いに対して、
日本兵と答えた人と米兵と答えた人がほぼ同率であるという結果が出ました。
頼りになる味方であるはずだった日本兵の方が怖かったというのはどういうことなのでしょうか。
そこには日本兵による住民虐殺の事実が隠されています。

沖縄戦では軍に保護を求める住民が軍とともに行動し、軍を追う形でともに南部へと逃げてきました。
住民は軍の情報にとても近い存在だったのです。ですから、住民が米兵に投降しようものなら、
軍の情報が漏れるとして日本軍が沖縄住民を背後から射殺したのです。
これは決して窮地に陥った軍のどさくさの行為ではありません。

それ以前から、「住民の諜報活動に注意せよ」との軍中央からの文書が配られています。
さらには方言を禁止し、会話をすべて軍が把握できるようにしようとしたのです。
実際方言をしゃべっていたためにスパイとして虐殺された沖縄住民もいます。

また、艦砲から逃れて壕へ入ろうとした住民を軍が作戦に使っているからという名目で艦砲の嵐の中に追い出したり、
中には住民が避難しているところに日本軍がやってきて追い出すケースもあったようです。
その結果、艦砲に当たって命を落とした住民も多数目撃されています。

ガマに避難する住民の子どもを「泣くと敵に見つかるから」と恫喝して”処分”させたり、親子ごと追い出したりしました。
沖縄戦ではこうした証言が相次いでいます。

「軍は住民を守らない」・・・沖縄戦の体験者の言葉がずっしり胸に響きます。
18朝まで名無しさん:04/02/13 11:59 ID:4wgoXj+0
日本軍の毒ガス作戦
http://www.koubunken.co.jp/0325/0307.html
 日中戦争下、日本軍が中国各地で毒ガス作戦を展開したことを知っている日本人は少ないと思います。
なぜなら、当時、国際法で使用を禁止されていた毒ガス兵器を用いた作戦について、日本軍はその隠蔽を徹底したからです。

戦後に至っても、「公刊戦史」と言われる『戦史叢書』ではまったく触れられておらず、
「毒ガス作戦の真実」は闇に閉じこめられたままです。

 著者の石切山英彰氏は、15年の歳月をかけて、毒ガス作戦の中国人生存者への聞き取り調査、
日本軍将兵への取材を重ねて、中国側軍民約千人の犠牲者を出した「北坦事件」の真相を明らかにしました。
「北坦村で何があったのか」「本当のことを知りたい」という石切山さんの執念にはただただ頭が下がります。
 アジア太平洋戦争について、「アメリカと戦った」「アメリカに負けた」という実感を持っている日本人は多いと思いますが、
「中国と戦った」「中国に負けた」という実感を持っている日本人はほとんどいないのではないでしょうか。
 本書は、日本軍が行った毒ガス戦について、徹底的な聞き取り調査を重ねて、
「北坦村で起きたこと」の真相に迫ったルポですが、この虐殺事件を通して見えてくるのは、
「三光作戦(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)」「毒ガス戦」「強制連行」の3点がセットになった、
日本軍による典型的な抗日勢力掃討作戦であったことがわかります。
そして、なぜ、圧倒的な火力に優る日本軍が負けたのか、侵略された側の中国民衆の怒り、
抗日勢力のゲリラ戦の実態を知ることができます。
歴史に「if」は無意味ですが、仮にアメリカと戦端を開いていなくても、
結局は、日本軍は、ベトナム戦争のアメリカ軍のように、中国大陸から追い出されただろうと思います。
 日中戦争に関心のある方には、日本軍の毒ガス作戦を記録した基礎文献としてぜひ読んでもらいたい本です。
19朝まで名無しさん:04/02/13 11:59 ID:4wgoXj+0
日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。
被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。
陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。
1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。
こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、
1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、
「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。
20朝まで名無しさん:04/02/13 12:00 ID:4wgoXj+0
シンガポール華僑虐殺事件
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-12-06/12_01faq.html
一九四一年十二月八日、日本軍は真珠湾攻撃の数時間前からマレー半島の上陸作戦と並行してシンガポールを空爆し、
半島南下作戦の末、四二年二月十五日にシンガポールを占領しました。山下奉文司令官の第二十五軍は、
直後の二月十九日に司令官名の「布告」を市内に張り出すなどし、中国系住民に二十一日正午までに指定地へ集合させました。

 日本軍は「良民登録」のための「検証」だと説明しましたが、実際には「検証」現場を封鎖し虐殺対象者を選別しました。
氏名を英語で書いた者や眼鏡をかけた者は「知識人」で「抗日」だろうといった基準で集めた人々を、
トラックで人気のない海岸などに運び、まとめて殺害しました(中島正人『謀殺の航跡─シンガポール華僑虐殺事件』など)。
犠牲者には女性や子どもも含まれています。

 「華僑(中国系住民)粛清」と称したこの作戦の前後にも虐殺がありました。
犠牲者総数は不明で、五万人の処刑計画があったとの供述などが残ります。マレーシアでも大規模虐殺が各地で実行されました。

 一九六〇年代、シンガポールでは工事現場などで大量の遺体発見が相次ぎ、犠牲者を悼む記念碑が建てられました。
碑文は四言語で、中国語では「日本占領時期死難人民記念碑」と刻まれています。
当時、冷淡な日本政府に怒った市民の「血債追討」(血の償いは血で果たせ)のスローガンなどから「血債の塔」とも呼ばれます。

 日本軍がシンガポールやマレーシアでも住民を大量虐殺したことは、これらの国々の教科書が数ページにわたり記述しています。
日本軍占領時代に家族や親族を殺害された記憶は、虐殺対象者を選別した「ケンペイタイ」(憲兵隊)などの語とともに、
今も人々の心に焼きつけられています。