>「アメリカ大使館報告」
>1937年11月27日
>ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛 第963号
>
>(略)市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民が
>まだ南京に残っているとのこと。
(解説)推定人口は30〜40万人であり、11月23日の公文書に記載された
「50余万」から2割以上の人口が減少していると推計している。これは「長江」
の輸送力をもとに 推計したものだろう。わずか4日間で10〜20万人が南京を
脱出可能だったという判断を、南京市政府が下していたという史料である。
>1937年12月5日
>ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛
>
>第993号 12月4日正午
>大使館電報第989号(12月3日午後2時発信)に関して。
>
>(略)
>長江岸へ通じる邑江門は混雑している。おそらく今日行われた南京城内に
>対する爆撃(大使館電報第994号、12月4日 午後一時発信を参照)
>によって流出者はさらに増えることになろう。
(解説)避難路である「長江=揚子江」の港に避難民が集合している。 つまり
11月27日の人口30〜40万からさらに人口は減少している と考えてよいだろう。
また、爆撃により、さらに流出者が増えると予測されている。その一方で
「大規模な難民流入」の報告はない。
>報告書作成 1月15―24日
>郵送 1938年2月2日
>南京の状況---エスピー報告 1938年1月
>
>(略)それゆえ、日本軍が南京に入城したとき、実際には南京は無傷のままであった。
>住民の5分の4は逃げ去っていたが、残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が
>設定しようとした、いわゆる安全区に避難していた。
「住民の5分の4は逃げ去っていた」→残留人口約20万人
>『徐永昌日記』 (関連部分のみ抜粋)
>11月20日
>朝、○○から下関(揚子江を渡るときの、南京の波止場)を通る。江岸は人の山で、
>すべて船を待つ民衆である。9時蒋介石を訪ね改めて陳述する。
>12月3日
>水道故障。この数日下関(長江対岸に渡る船着場)には渡河を待つ者、常に三万五万、
>難民、退却軍であふれており、空襲でもあれば、その惨状は想像を絶する。
>12月7日
>昨日、敵機浦口を空襲、死傷者三百余ときく。下関碼頭一帯、渡河を待つ者、海、山の如く、
>待つこと三日、まだ渡れぬ者ありという。
>ベイツ『南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告』(38年2月28)
>南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにも 関わらず、
>25万が安全区に入り込み、’数千人が同区外に留まって’さらに悲惨なめにあうことになった。
スマイス報告の前書き
「陥落時の’市の人口は’20万人であった」
残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる安全区に避難していた。
残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる安全区に避難していた。
残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる安全区に避難していた。
残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる安全区に避難していた。
残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる安全区に避難していた。