1 :
1:
金子氏の虚構を暴こう
3 :
無知高卒:01/11/27 02:10 ID:P3EWIcII
kanekoって誰?
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/27 02:12 ID:jX5Euizc
6 :
?:01/11/27 03:53 ID:VOwD0kfi
金子晴美(Vocal)
独協大学ドイツ語科在学中、ジャズ・ヴォーカルを始める。
水島早苗ヴォーカル研究所を経て、ライヴ・スポットにデビュー。
豊かな英語力とディクションの美しさをかわれ、1980年4月、ボブ・ドローのプロデュースにより、ファースト・アルバム『アイ・ラヴ・ニューヨーク』を発表。
ロン・カーターをはじめニューヨークの一流ジャズメンをバックに抜群のスィングを聴かせ、センセイショナルな成功を納める。
○ 主なアルバム〜現在まで13作品を発表〜
80年 4月 ファースト・アルバム『アイ・ラヴ・ニューヨーク』発表。
81年 4月 ライヴ・アルバム『ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド』発表。
83年 9月 サザンオールスターズ・桑田佳祐の作品に英詩をつけ、ジャズ風にアレンジした作品『スペシャル・メニュー』を発表。
88年11月 ロン・カーターとの共演アルバム『アイム・ウォーキン』を世界20ヶ国で同時発売。
90年 6月 ニューポート・ジャズ・フェスティバルの名プロデューサー、ジョージ・ウェインをプロデューサーに迎えアルバム『マイ・ロマンス』を発表。
92年 9月 ハーモニカのトウーツ・シールマンスをゲストに迎え、ポップ・スタンダードアルバム『トライ・トウ・リメンバー』を発表。
92年11月 かねてからあたためていた企画、クリスマスにちなんだ絵本とCD『クロースのおくりもの』を製作、発表し、童話の執筆と作詞という新境地を開いた。
00年 9月 ドラムスにグラディ・テイトを迎えて、ライヴ・アルバム 『ウェン・ザ・メドゥ・ワズ・ブルーミング』を発表。
http://www.impr.com/kaneko/
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/27 03:57 ID:VOwD0kfi
金子みすゞ略歴
http://www.kinokuniya.co.jp/01f/misuzu/ABOUT_M/PROFILE/PROFILEBODY.html 1903年(明治36年)山口県長門市仙崎(当時大津郡仙崎村)生まれ。
本名を金子テルといい“みすゞ”というペンネームは、信濃国の枕詞、みすずかるという言葉の響きを好んでつけたもの。
15歳の時に叔母フジが死亡。未亡人であった母ミチがその後妻として下関の上山松蔵に嫁ぐ。
しばらくは兄、兄嫁と仙崎で暮らすが大正12年母のいる下関へ移る。
上山文英堂という書店を営む松蔵に商品館という小さな書店を任せられた。
店番の合間に書物を読みそして詩をつくり、雑誌に投稿を始める。
金子みすゞの作家人生はここから始まった。
1923年(大正12年)6月、初めて投稿した作品が『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』四誌に一斉に掲載される。
西条八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛され、一躍当時の童謡詩人たちから羨望を浴びた。
1926年(大正15年)には、『日本童謡集・一九二六年版』(童謡詩人会編)に、北原白秋、西條八十、野口雨情、三木露風、
竹久夢二、泉鏡花、若山牧水など錚々たる顔ぶれと共に、女性の詩人としてはただ一人、 みすゞが選ばれ、《大漁》《お魚》の
二編が掲載という快挙を成し遂げる。
童謡を書き始めてわずか3年目のことである。
そんな折り、店の使用人との縁談が持ち上がり、周囲の強いすすめもあり同年、結婚。
長女ふさえが誕生するが、遊郭通いが絶えず店からも追い出された夫より淋病を移され病臥に伏す。
また夫から童謡を書くことと投稿仲間との文通を禁じられたのもこの時期。
4年後の1930年正式離婚。長女ふさえはみすゞの手元へ。
しかし、夫は長女の親権を主張し幾度か書簡でのやりとりが交わされる。
そして強行な夫がついに娘を連れにくるという通達のあった前夜、みすゞは最期の日を迎える。
1930年(昭和5年)3月9日。
写真館に出かけ、最後の写真を撮ったみすゞは、ふさえと一緒に風呂に入り、桜餅を食べ二階の寝室へあがる。
普段となんら変わった様子は見受けられなかったという。
そして夜半過ぎ、三通の遺書をそれぞれ上山松蔵とミチ、夫、上山正祐にしたため、カルモチン(睡眠薬)を飲み、自殺-------。
遺書の他に遺影となる写真の引換券も残されていた。
弟正祐に宛てた遺書の結びの一行は、正祐がみすゞへ宛てた最後の手紙(2月26日付)の結び、「強くあれ、みすゞ女史よ」に
呼応するかの如く「さらば、我等の選手、勇ましく往け」とあった。
26歳で自死したみすゞの童謡は、散逸し幻の童謡詩人と語り継がれるばかりであったが、「日本童謡集」(与田凖一編・岩波文庫)に
掲載された《大漁》という作品に感銘を受けた児童文学者矢崎節夫が16年間にわたってみすゞの足跡を辿り、没後50年余を経た
1982年、実弟上山正祐(上山雅輔)と出会う。
その手元で保管されていた512編の遺稿集発見。みすゞは甦りを始める。
1984年JULA出版局から全集や選集が次々と出版され、そしてさらに1993年に矢崎節夫著の『童謡詩人金子みすゞの生涯』
(JULA出版局)が刊行されたことにより、その詩と共にみすゞの輪は限りなく広がっていく。
1996年4月からは、小学校国語教科書や道徳の副読本など詩が掲載され、 金子みすゞの魂の火は消えることなく燃え続けている。
<敬称略>資料引用 矢崎節夫著「金子みすゞの生涯」 JULA出版局
8 :
カネゴン:01/11/27 04:01 ID:VOwD0kfi
ウルトラQ 第十五話「カネゴンの繭」
加根田金男はお金の大好きな少年だった。
ある日、金男は、少年たちのバザーでふるとお金の音がする不思議な繭を手にいれる。
金男のお金好きに心配した両親が、「あまりきたなくお金を集めていると怪獣カネゴンになっ
てしまうぞ」と説教しても、まったくこたえない様子だった。
その夜、金男は不思議な繭の中に引き込まれ、本当にカネゴンになってしまったのだ。
カネゴンになってしまった金男は、友だちに元に戻すのを手伝ってくれとせがむ。
しぶしぶ、引き受けた友だちたちも際限なくお金を食べつづけるカネゴンに手を焼いた。
そして、怪し気な祈祷師の元を訪ね、カネゴンがどうしたら金男に戻れるかを占ってもらうこ
とにした。
その結果、カネゴンはいつも子供たちをいじめる工事現場の監督・ヒゲオヤジが逆立ちした時
に金男に戻れるだろうと予言した。
ヒゲオヤジを逆立ちさせることなど出来るはずがないと半分あきらめかけていた子供たちだが
、ヒゲオヤジのあまりのいじめに反撃を開始した。
そして、ヒゲオヤジが偶然、逆立ちの体勢になった時、カネゴンは、金男に戻ることができた
のである。
しかし、よろこび勇んで家に帰った金男は、両親がカネゴンになっていることに愕然とするの
であった。
http://homepage2.nifty.com/ultraq/story_15.html
9 :
代表取締役社長 金子源吉:01/11/30 21:39 ID:LbNY+0JW
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/02 22:56 ID:hucR9bHc
あげ
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/02 23:01 ID:gmH1CV1F
中元(ちゅうげん)に少しの金子(きんす)を渡し、内密(ないみつ)にするよう話したお初は、玉姫と二人して
こっそり夜の太田の町へと出かけました。
町のあちらこちらでは、少々お酒の入った男たちが大きな声で笑いあって
いました。笛や太鼓の音が大きくなり、その周りでは男や女子供が輪になって
なにやら踊っています。
「お初 あれはなんじゃ?」
「はい姫様 盆踊りにございます。」
「盆踊り?私もやってみたい。」
「無理でございます。」
「でも やりたいのじゃ。」
そう二人してやりとりをしていた時です。フッと姫が誰ぞやに抱きかかえられ
ました。あっと思ったときです。抱きかかえた男が言いました。
「さあさ おじょう 何だかんだって言ってないで、入った入った。」
男は玉姫を輪の中にいれました。
最初は少しばかりまごまごしていましたが、その内に玉姫は上手に踊るように
なりました。ハラハラしてみていたお初でしたが、玉姫の余りにもうれしそうな
顔を見て、なんだか急にかわいそうになりました。
それはそうです。玉姫はまだ9歳。父親である殿様、母親である奥方様と別れ
単身江戸表の屋敷に出向くのです。いくらこれが世の慣(なら)わしとは言え、これで
今生(こんじょう)の別れになるのかもしれません。
お初はできるだけ玉姫のやりたいようにしてあげようと思いました。
その後、町のあちらこちらを見て周り、玉姫とお初は本陣へ戻りました。
踊りつかれたのか、歩きつかれたのか、玉姫は軽いいびきをかいて眠って
しまいました。お初もドッと疲れがでたようです。早々に眠りにつきました。
どの位たったでしょう。
ピカッ・ガラガラドドーン
すさまじいカミナリとともに雨が降り出しました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ne-ming/mukasi/himesama/hime4.htm
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/07 12:04 ID:5iejJ7LD
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/07 12:33 ID:5iejJ7LD
中元(ちゅうげん)に少しの金子(きんす)を渡し、内密(ないみつ)にするよう話したお初は、玉姫と二人して
こっそり夜の太田の町へと出かけました。
町のあちらこちらでは、少々お酒の入った男たちが大きな声で笑いあって
いました。笛や太鼓の音が大きくなり、その周りでは男や女子供が輪になって
なにやら踊っています。
「お初 あれはなんじゃ?」
「はい姫様 盆踊りにございます。」
「盆踊り?私もやってみたい。」
「無理でございます。」
「でも やりたいのじゃ。」
そう二人してやりとりをしていた時です。フッと姫が誰ぞやに抱きかかえられ
ました。あっと思ったときです。抱きかかえた男が言いました。
「さあさ おじょう 何だかんだって言ってないで、入った入った。」
男は玉姫を輪の中にいれました。
最初は少しばかりまごまごしていましたが、その内に玉姫は上手に踊るように
なりました。ハラハラしてみていたお初でしたが、玉姫の余りにもうれしそうな
顔を見て、なんだか急にかわいそうになりました。
それはそうです。玉姫はまだ9歳。父親である殿様、母親である奥方様と別れ
単身江戸表の屋敷に出向くのです。いくらこれが世の慣(なら)わしとは言え、これで
今生(こんじょう)の別れになるのかもしれません。
お初はできるだけ玉姫のやりたいようにしてあげようと思いました。
その後、町のあちらこちらを見て周り、玉姫とお初は本陣へ戻りました。
踊りつかれたのか、歩きつかれたのか、玉姫は軽いいびきをかいて眠って
しまいました。お初もドッと疲れがでたようです。早々に眠りにつきました。
どの位たったでしょう。
ピカッ・ガラガラドドーン
すさまじいカミナリとともに雨が降り出しました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ne-ming/mukasi/himesama/hime4.htm
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/07 14:53 ID:5iejJ7LD
金子みすゞ略歴
http://www.kinokuniya.co.jp/01f/misuzu/ABOUT_M/PROFILE/PROFILEBODY.html 1903年(明治36年)山口県長門市仙崎(当時大津郡仙崎村)生まれ。
本名を金子テルといい“みすゞ”というペンネームは、信濃国の枕詞、みすずかるという言葉の響きを好んでつけたもの。
15歳の時に叔母フジが死亡。未亡人であった母ミチがその後妻として下関の上山松蔵に嫁ぐ。
しばらくは兄、兄嫁と仙崎で暮らすが大正12年母のいる下関へ移る。
上山文英堂という書店を営む松蔵に商品館という小さな書店を任せられた。
店番の合間に書物を読みそして詩をつくり、雑誌に投稿を始める。
金子みすゞの作家人生はここから始まった。
1923年(大正12年)6月、初めて投稿した作品が『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』四誌に一斉に掲載される。
西条八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛され、一躍当時の童謡詩人たちから羨望を浴びた。
1926年(大正15年)には、『日本童謡集・一九二六年版』(童謡詩人会編)に、北原白秋、西條八十、野口雨情、三木露風、
竹久夢二、泉鏡花、若山牧水など錚々たる顔ぶれと共に、女性の詩人としてはただ一人、 みすゞが選ばれ、《大漁》《お魚》の
二編が掲載という快挙を成し遂げる。
童謡を書き始めてわずか3年目のことである。
そんな折り、店の使用人との縁談が持ち上がり、周囲の強いすすめもあり同年、結婚。
長女ふさえが誕生するが、遊郭通いが絶えず店からも追い出された夫より淋病を移され病臥に伏す。
また夫から童謡を書くことと投稿仲間との文通を禁じられたのもこの時期。
4年後の1930年正式離婚。長女ふさえはみすゞの手元へ。
しかし、夫は長女の親権を主張し幾度か書簡でのやりとりが交わされる。
そして強行な夫がついに娘を連れにくるという通達のあった前夜、みすゞは最期の日を迎える。
1930年(昭和5年)3月9日。
写真館に出かけ、最後の写真を撮ったみすゞは、ふさえと一緒に風呂に入り、桜餅を食べ二階の寝室へあがる。
普段となんら変わった様子は見受けられなかったという。
そして夜半過ぎ、三通の遺書をそれぞれ上山松蔵とミチ、夫、上山正祐にしたため、カルモチン(睡眠薬)を飲み、自殺-------。
遺書の他に遺影となる写真の引換券も残されていた。
弟正祐に宛てた遺書の結びの一行は、正祐がみすゞへ宛てた最後の手紙(2月26日付)の結び、「強くあれ、みすゞ女史よ」に
呼応するかの如く「さらば、我等の選手、勇ましく往け」とあった。
26歳で自死したみすゞの童謡は、散逸し幻の童謡詩人と語り継がれるばかりであったが、「日本童謡集」(与田凖一編・岩波文庫)に
掲載された《大漁》という作品に感銘を受けた児童文学者矢崎節夫が16年間にわたってみすゞの足跡を辿り、没後50年余を経た
1982年、実弟上山正祐(上山雅輔)と出会う。
その手元で保管されていた512編の遺稿集発見。みすゞは甦りを始める。
1984年JULA出版局から全集や選集が次々と出版され、そしてさらに1993年に矢崎節夫著の『童謡詩人金子みすゞの生涯』
(JULA出版局)が刊行されたことにより、その詩と共にみすゞの輪は限りなく広がっていく。
1996年4月からは、小学校国語教科書や道徳の副読本など詩が掲載され、 金子みすゞの魂の火は消えることなく燃え続けている。
<敬称略>資料引用 矢崎節夫著「金子みすゞの生涯」 JULA出版局
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/07 15:30 ID:5iejJ7LD
中元(ちゅうげん)に少しの金子(きんす)を渡し、内密(ないみつ)にするよう話したお初は、玉姫と二人して
こっそり夜の太田の町へと出かけました。
町のあちらこちらでは、少々お酒の入った男たちが大きな声で笑いあって
いました。笛や太鼓の音が大きくなり、その周りでは男や女子供が輪になって
なにやら踊っています。
「お初 あれはなんじゃ?」
「はい姫様 盆踊りにございます。」
「盆踊り?私もやってみたい。」
「無理でございます。」
「でも やりたいのじゃ。」
そう二人してやりとりをしていた時です。フッと姫が誰ぞやに抱きかかえられ
ました。あっと思ったときです。抱きかかえた男が言いました。
「さあさ おじょう 何だかんだって言ってないで、入った入った。」
男は玉姫を輪の中にいれました。
最初は少しばかりまごまごしていましたが、その内に玉姫は上手に踊るように
なりました。ハラハラしてみていたお初でしたが、玉姫の余りにもうれしそうな
顔を見て、なんだか急にかわいそうになりました。
それはそうです。玉姫はまだ9歳。父親である殿様、母親である奥方様と別れ
単身江戸表の屋敷に出向くのです。いくらこれが世の慣(なら)わしとは言え、これで
今生(こんじょう)の別れになるのかもしれません。
お初はできるだけ玉姫のやりたいようにしてあげようと思いました。
その後、町のあちらこちらを見て周り、玉姫とお初は本陣へ戻りました。
踊りつかれたのか、歩きつかれたのか、玉姫は軽いいびきをかいて眠って
しまいました。お初もドッと疲れがでたようです。早々に眠りにつきました。
どの位たったでしょう。
ピカッ・ガラガラドドーン
すさまじいカミナリとともに雨が降り出しました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ne-ming/mukasi/himesama/hime4.htm
16 :
:01/12/08 15:18 ID:pDTPomo7
金子晴美(Vocal)
独協大学ドイツ語科在学中、ジャズ・ヴォーカルを始める。
水島早苗ヴォーカル研究所を経て、ライヴ・スポットにデビュー。
豊かな英語力とディクションの美しさをかわれ、1980年4月、ボブ・ドローのプロデュースにより、ファースト・アルバム『アイ・ラヴ・ニューヨーク』を発表。
ロン・カーターをはじめニューヨークの一流ジャズメンをバックに抜群のスィングを聴かせ、センセイショナルな成功を納める。
○ 主なアルバム〜現在まで13作品を発表〜
80年 4月 ファースト・アルバム『アイ・ラヴ・ニューヨーク』発表。
81年 4月 ライヴ・アルバム『ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド』発表。
83年 9月 サザンオールスターズ・桑田佳祐の作品に英詩をつけ、ジャズ風にアレンジした作品『スペシャル・メニュー』を発表。
88年11月 ロン・カーターとの共演アルバム『アイム・ウォーキン』を世界20ヶ国で同時発売。
90年 6月 ニューポート・ジャズ・フェスティバルの名プロデューサー、ジョージ・ウェインをプロデューサーに迎えアルバム『マイ・ロマンス』を発表。
92年 9月 ハーモニカのトウーツ・シールマンスをゲストに迎え、ポップ・スタンダードアルバム『トライ・トウ・リメンバー』を発表。
92年11月 かねてからあたためていた企画、クリスマスにちなんだ絵本とCD『クロースのおくりもの』を製作、発表し、童話の執筆と作詞という新境地を開いた。
00年 9月 ドラムスにグラディ・テイトを迎えて、ライヴ・アルバム 『ウェン・ザ・メドゥ・ワズ・ブルーミング』を発表。
http://www.impr.com/kaneko/
18 :
わかった:01/12/08 22:05 ID:RR7aShzu
江戸時代、人質として江戸にいることになっているのは
姫ではなく奥方のほう。
だから少なくともパパには1年おきに会えたはず。
よってこの話は成立せず虚構。
ってことかなあ?あってる?
19 :
18:01/12/08 23:35 ID:RR7aShzu
>>18ちょっと読みが足らなかった。
一人で旅に出るんだね。
でも、少なくともママは江戸にいなくてはならないはずだから、
ってことで、やっぱ変。
新宮誕生で中断された太陽にほえろを見ていたら
金子賢がよりによって刑事役だったのはおかしかった。