知覧で小泉が泣いた!

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535でりだ
特攻から話がずれて恐縮だが、ガダルカナルでの作戦についての記述です。

一木支隊の攻撃
 日本軍は、正確な情報が得られないまま,ガダルカナルに上陸したのは2,000名
程度の偵察隊であろうと勝手に推測し,一木支隊(約2,000人)を派遣を決定、その
第一陣900人は18日の夜に飛行場の東に上陸した。一木支隊先遣隊は後続の到
着を待たずに進撃し,斥候隊を送ったがアメリカ軍の待ち伏せに逢って全滅してし
まった。これを聞いた一木大佐は奇襲攻撃の効果が薄れることを恐れたのか、十
分な情報収集も行わないままその夜の総攻撃を決定した。
 8月20日夜、一木支隊は海岸沿いに進出し,アメリカ軍の兵力も確認しないまま
陣地に突撃を行った。しかし、アメリカ軍の機銃の前に日本兵は次々となぎ倒され
ていった。夜が明けると、日本兵士は海岸を埋め尽くすように倒れていた。彼らが
攻撃したのは堅固なトーチカ群だったのである。朝から戦車をまじえたアメリカ軍
の反抗が始まり,一木支隊の残存兵力は完全に蹂躙されていった。一木大佐も成
すすべなく自害して果てた。日本軍は参加した兵力のほとんどである800人近くが
戦死した。

第2師団が上陸したのは飛行場の西側だった。主力はアメリカ軍の背後を迂回し,
川口支隊が大損害を出した「血染めの丘」方面から攻撃し、同時に西側海岸から
砲兵隊を中心に陽動攻撃を加えることにした。その後の補給がほとんど当てにで
きなかったことも有り,百武中将は早期の総攻撃を行おうとした。しかし、十分な機
材を揚陸することができなかった日本軍工兵隊は、1枚の地図も無い状態で、ほと
んど人力で深い密林を切り開かなければならなかった。やっと開通した60kmあまり
の迂回
路(丸山道)は下枝を払った程度のもので、夜間ともなると一寸先も見えなかった。
第2師団はこの道を手探りで進んでいったが遅々として進まず,攻撃予定は何度も
延期された。その間、海岸沿いに進撃した部隊は、アメリカ軍の猛砲撃のために総
攻撃以前に戦力を消耗し尽くしていた。そして結局、足並みが揃わないまま、攻撃
日時だけが10月24日と決定された。

 総攻撃の予定時刻になっても日本軍は飛行場にたどりつけていなかった。夜11時
過ぎ、やっと左翼隊がアメリカ陣地に銃剣突撃を始めたが、機関銃の掃射の前に全
く成功しない。そのまま夜が明けて攻撃は中止となった。百武中将は翌25日夜も総
攻撃を続けたが、前夜と全く同じ結果になり第2師団の総攻撃は失敗に終わった。突
撃を試みた日本兵は殆ど全てアメリカ軍の銃弾に倒れた。第2師団の兵士は丸山道
を引き返したが途中で倒れる者が多く、丸山道は白骨の並ぶ道と化して行った。


ちなみに敵が機銃掃射する中、突撃する際、
「発砲は禁止」だったそうだ。