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名無しさん@1周年 :
解放派赤砦社機関紙「解放」より転載
ハザマ私兵グループによる八・三〇片山美恵子同志虐殺に大報復を叩きつけよ!革命的労働者協会(解放派)(1)
八月三○日午前八時十五分、JRうぐいす谷駅南口で、片山美恵子同志が、ハザマの私兵どもの凶刃に、全身十七ケ所をメッタ刺しにされ、同日午後一時五十五分、日本医大病院で死去した。享年四十八歳であった。奇しくも北条千秀同志が死去したのと同じ病院であった。
ハザマの私兵どもは、通勤客でごった返すJRうぐいす谷の駅前で、衆人環視のもとで、この兇行を行った。片山美恵子同志が日本医大病院に運ばれたときには、血液の四分の一がすでに失われていた。刃を水平にして、肋骨の間を通して心臓を刺し貫き肝臓にいたる刺し傷が致命傷となった。片山美恵子同志は、生への執着をもって、五時間以上にわたって死と闘い抜き、死去した。
片山美恵子同志は、一昨年、沖縄で死去した片山在根同志の母親である。ハザマの私兵どもは、片山在根同志を死に追いやったぱかりか、その母親までも虐殺しさったのだ。
われわれは、またもや最もかけがえのない同志を失った。 われわれは、必ずや、ハザマ、外園、八十島らの首をもって、片山美恵子同志に哀悼の意を表する。(2)
片山美恵子同志は、一九五二年五月三日に名古屋市内で生まれた。
一九七一年に明治学院大に入学するも、片山在根同志の出産・育児のために、大学を去りアルプス電気に就職。
アルプス電気在職中に、片山在根同志を連れて三里塚闘争に決起するなど片山在根同志とともに闘いを闘い抜き片山在根同志を育てあげた。
一九八三年、明大生協に就職。明大生協労組分裂以後、明大生協従業員労組委員長として、明大従業員労組のみならず、精力的に全国の労働組合・争議団との連帯・交流を推し進めてきた。片山在根同志が、解放派に結集することをいやがり白梅女子短期大に入学したときにも、優しく見守り片山在根同志の沖縄人民解放闘争への決起を促した。片山在根同志が沖縄で死去したときも全金本山闘争で仙台の地にあり、死去後も、悲しみをこらえて闘いを継続した。
一九九九年の北条千秀同志の死去のときも、「一・二二北条千秀追悼集会」の最先頭で闘い抜き、明大攻防を九九%の勝利に導いた。
一九九九年五月の解放派分裂に対しても、階級闘争に寄生しているにすぎないハザマ私兵グルーブとの闘いを毅然として闘い抜いた。
本年六月八日の凶準弾圧に始まる解放派に対する組織破防法型弾圧に対しては、弾対活動の中心を担い不眠不休の闘いを展開していた。
死の直前にも、八・二六国労続開臨大闘争に、明大従業員労組と東京・山谷日雇労働組合を率いて決起していた。八月三十日も、下馬生協争議の支援に向かう途上であった。
ハザマの私兵どもは、こうした片山美恵子同志を、憎悪にかられて虐殺したのである。(3)
片山美恵子同志の死に対するわれわれの悲しみは、本当に深い。そして、片山美恵子同志を虐殺したハザマの私兵どもに対しては、腹の底から本気で怒っている。
われわれは、この「左翼」の屑どもを、あたるを幸い、次々と打ち倒す。そして、可及的速やかに、この「左翼」の屑どもを消滅させてしまう。
ハザマよ。お前の恥多き生に、即刻、われわれの手で終止符を打ってやる。ハザマの腰巾着の外園、八十島よ。お前たちの首を即刻、刈り取ってやる。
八・三○片山美恵子同志虐殺の下手人どもよ。草の根をわけても、必ずお前たちを捜し出し、止めを刺してやる。
荒井、荒木、袴田、柳川、田中、小林の裏切り六人組よ。昨年七月、「学生合中執正・副委員長声明」なるものを明大当局に差し出し、本年五月には、明大和泉学館への「放火ゲリラ」の手引きを行い、二度にわたって九九%手中に収めた明大攻防のぶち壊しを謀った裏切り六人組よ。片山美恵子同志を虐殺しておきながら、明大生協理事長宅に押しかけ自宅周辺にビラをまき散らし、「就労の安全を保障しろ」などと厚顔無恥の寝言をこいている裏切り六人組よ。お前たちも、われわれの第一級のターゲットとなった。
われわれは、この「左翼」の屑どもを、きれいさっぱり消滅させてから、片山美恵子同志の遺志を引き継ぎ、前人未踏のプロレタリア世界革命による共産主義革命の実現に向けて進撃していく