黒田官兵衛から荒木村重に、幽閉から4年後に送られた親しげな書簡の写しが見つかる
1 :
ムーンサルトプレス(大阪府):
兵庫県伊丹市立博物館は2日、戦国武将、荒木村重(道薫)に幽閉された黒田官兵衛が、後に村重に
送った書簡の写しが見つかったと発表した。織田信長に謀反を起こした村重の説得に訪れた官兵衛は
1年間幽閉された。それから4年後の手紙だが、文面からは親しげな関係がうかがえ、研究者は
「幽閉は過酷なものではなく、2人は変わらずに親しい関係だったのでは」と分析している。
同館によると、今年10月、伊丹市の郷土史家が1936年発行の「茶道全集」に書簡の内容が掲載されて
いるのに気付き、同館が京都市上京区の相国寺光源院で書簡を確認した。
村重は伊丹にあった有岡城の元城主で、官兵衛とともに織田信長に仕えた。1578(天正6)年、村重は
信長に謀反を起こし、説得に訪れた旧知の官兵衛を有岡城に幽閉。1年後に城を捨てて逃れ、官兵衛は
解放された。書簡は本能寺の変で信長が討たれた翌年の1583(同11)年に書かれた。
当時、官兵衛は秀吉の配下で、茶人となっていた村重は茶道を通じて秀吉との関係を深めていた。
書簡は、村重から光源院の領地問題の相談を受けた官兵衛が返書を出し、これを村重が書き写し、
交渉が順調だと伝えるために光源院に送ったものとみられる。
「秀吉様のお考えどおりに間違いのあるわけがありません」と秀吉をたたえる言葉や「姫路へのお供を
されるのであれば、この地へお出(い)でになるだろうと存じていたところ、お出でになられず、とても残念」
と再会できなかったことを惜しむ文がつづられていた。
神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)は「文面からは遺恨は感じられない。茶人となった村重が
政治に関与し、秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする2人の関係を示す貴重な資料だ」と
評価している。【幾島健太郎】
http://mainichi.jp/graph/2013/12/03/20131203k0000m040151000c/image/001.jpg http://mainichi.jp/select/news/20131203k0000m040151000c.html
2 :
リバースネックブリーカー(山口県):2013/12/03(火) 10:09:14.40 ID:MEyMg0qn0
足は?
[ ::━◎]ノ ステマ.
4 :
グロリア(岡山県):2013/12/03(火) 10:17:40.40 ID:bYloxgny0
腹黒らしい慇懃な社交辞令
5 :
16文キック(関東・東海):2013/12/03(火) 10:23:25.94 ID:RfPWm1wGO
この幽閉の件、ドラマなどでは官兵衛が石牢の中に監禁され
それが原因で不自由な体になったような描写をよく見るが
>>1 何て書いてあるか全く判らん。こんな字でも慣れてくれば読めるようになるのか?
幽閉中に足萎えになったうえハゲたんだろ
おれなら絶許
8 :
ナガタロックII(SB-iPhone):2013/12/03(火) 13:14:23.89 ID:nYJPMi3Ci
つまりハゲを誤魔化したかっただけか
9 :
エルボーバット(東京都):2013/12/03(火) 13:17:01.38 ID:dA6htXcN0
荒木「よ、読めない」
11 :
オリンピック予選スラム(大阪府):2013/12/03(火) 15:42:48.85 ID:pSre1uS40
体中に白癬菌が広まったんじゃなかったの?
12 :
リバースパワースラム(禿):2013/12/03(火) 18:33:33.57 ID:VtDrL9ig0
あのちんばが俺の次の天下人 って秀吉に思われてるのに、うかつな手紙書けねえよ!
ところで、この有名な言葉は言葉がりにあって、大河じゃ出ないんなー
13 :
毒霧(チベット自治区):2013/12/03(火) 18:36:16.25 ID:m4634e8r0
手紙が本心とは限らないよね
いつの時代も
14 :
テキサスクローバーホールド(東京都):
大切な茶碗だけ持って、家臣放り出して逃げたイメージがこの御仁
その後の事なんて、全然知らんかったのに、こんな落ちだったのか?
来年の大河、この辺のところは在り来たりに描くのかね?
これって、大学で歴史専攻した人では当たり前の事なの?