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8月15日、前日の協定に反し、午後1時頃より300名の水兵が上陸。棍棒を持つ者もあり、
また、刀剣を購入する者も少なくなかった。清国水兵数人が交番の前でわざと放尿し交番の巡査が注意すると、
彼らはその巡査を袋叩きにした。300人の清国兵が3人の巡査によってたかって暴行し、1人が死亡した。
これを見ていた人力車車夫が激昂し、清国水兵に殴りかかった。
すると、清国水兵の一団が加勢し大乱闘となった。そして、止めに入った警察官と清国水兵がまたも斬り合う事態に発展し、
それぞれ死傷者を出す(清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。
日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。日本人住民も十数名が負傷)という大事件となった。
事件の影響
この事件は1884年(明治17年)の甲申政変と併せて日本国内の反清感情を大いに刺激し、
後の日清戦争を引き起こす遠因の一つとなった。また、頭山満らにより結成された政治結社・玄洋社が当初の民権論から国権論へと転向する契機ともなった。
事件後、清は日本側に無礼を謝罪せず、むしろ圧倒的な海軍力を背景に高圧的な態度に出た。
当時、清は定遠を始めとする最新式の戦艦を保有しており、日本海軍はこれに敵わないと考えられており、
またこの事件の2年前に発生した甲申政変でも日本は清に敗退しており、当時の日清の力関係は清が優位に立っていた。
清は日本政府に対して、日本の警察官が今後帯刀することを禁ずべしという要求を突き付け、これを飲ませることに成功した。