インドが完全証言 「当時の日本帝国兵はアジア開放の味方。気品があり親切な人々だった」

このエントリーをはてなブックマークに追加
50 ベンガルヤマネコ(関東地方):2012/06/26(火) 00:28:51.83 ID:0gXgz4h6O
>>48
ぶざまっていうのは事実じゃなくて評価が入ってるぞ
司法試験でそれを現実の事実といったら減点
あとは勝敗の捉え方と視点がチミらのくい違いだね
51 メインクーン(dion軍):2012/06/26(火) 00:41:35.16 ID:VF9an5cO0
インドでドキュメント映画ってイマイチ想像出来ないな。
劇場用ではないんだろうけど

NHKが買ってBSでいいから放送すべきだろうけど
NHK内の謎の反対勢力に阻まれそうだな
52 オシキャット(東京都):2012/06/26(火) 00:47:54.27 ID:hMBsXhtg0
>>34
むしろそれがメインです
53 黒(沖縄県):2012/06/26(火) 01:18:49.87 ID:txXNrq2F0
会田雄次だったかビルマで捕虜になって収容されたが、看守のイギリス兵の英文綴りがめちゃくちゃで
逆に正しい単語の綴りを教えてあげたり字が読み書きができないインド兵に時を教えてたいへん感謝されたらしい
捕虜の日本兵全員が読み書きできると聞いて英軍はそんなわけねえだろと信じなかったが
当時の英軍の兵の半分は読み書きに難があったと
54 ツシマヤマネコ(内モンゴル自治区):2012/06/26(火) 01:20:13.55 ID:6dxEDSQ5O
インパール作戦からは日本人の日本人に対する底なしの悪意を感じ取らずにはいられない。
55 イリオモテヤマネコ(神奈川県):2012/06/26(火) 01:24:54.08 ID:6ye9+mcb0
獅子身中の虫

スパイに対する意識が甘過ぎる
56 オリエンタル(千葉県):2012/06/26(火) 01:33:02.65 ID:uQLro7Hx0
ホルホルホルホルwwwww
57 サビイロネコ(東京都):2012/06/26(火) 02:30:11.39 ID:ouSBWxvm0
インド人嘘つかない
58 アムールヤマネコ(関東・甲信越):2012/06/26(火) 03:11:54.38 ID:xBsZQRNpO
連呼リアン「ちぇっインド使えねーな」
59 シャルトリュー(岩手県):2012/06/26(火) 03:13:13.55 ID:p0FrjgQE0
まあそのインド人をインパールで牟田口は見殺しにしたんだけどね
60 マンクス(千葉県):2012/06/26(火) 03:24:23.72 ID:YRon8sYF0
お前ら、本当インド好きだなw
インドは、中露主導のアジア板ワルシャワ条約機構のオブザーバーだぞ
っで、できることなら日本もそっちに引き込みたい

インド使って、中国封じ込めなんてのは、90年代にアメがやろうとして失敗した計画の名残だ
っで、そのアメもあきらめた…
まぁ、商人国家なので利次第でどちらにも転ぶだろうが
61 イリオモテヤマネコ(中国・四国):2012/06/26(火) 03:39:14.74 ID:rHUNvmo1O
日本兵の残虐行為って なかなか起きてないわな 経緯考えるとさ
大東亜協栄圏作る目的はいわゆる今のEU化だから教育も、インフラ整備も行った

強姦だとかしたら占領した地区の治安乱すから厳罰

他の国では日本兵の蛮行を全くと言っていいほど聞かない

でもなぜか中国 韓国で有り得ないレベルで起きているwww
62 黒(千葉県):2012/06/26(火) 03:47:29.00 ID:WzAEZ+vk0
>>21
岐阜って何があるの?
63 ジャガー(SB-iPhone):2012/06/26(火) 04:14:33.15 ID:Tq6j1pYEi
34のガキが何を証言したって?
64 ユキヒョウ(新疆ウイグル自治区):2012/06/26(火) 04:20:18.36 ID:ngMtpQ0X0
連呼リアンざまあ
65 黒(大阪府):2012/06/26(火) 04:29:02.75 ID:fNxbMYpK0
中国ファビョってるwwwwヘイヘイwwww
66 マンクス(九州地方):2012/06/26(火) 04:34:08.82 ID:nIiuNEg8O
もう中国ではなく時代はインドだな
67 ボンベイ(関東地方):2012/06/26(火) 04:41:35.51 ID:mRsE+zEJO
帝国兵ってなんかスターウォーズみたいだな
68 アフリカゴールデンキャット(関東・甲信越):2012/06/26(火) 05:22:32.81 ID:X10mS5TMO
インパールじゃないがニューギニアから生還した爺ちゃんも地獄を見て来た。
戦闘よりも、マラリヤと飢餓で一万いた兵隊はバタバタ死んで爺ちゃんの部隊の生還者はたったの5人。
撤退の時に、富士山より高い山々を越えることになったが、みんな南国用の軽装しかしてなかったから凍死者も続出したらしい。
69 しぃ(やわらか銀行):2012/06/26(火) 05:34:02.54 ID:Lh6BYzA10
>>36
ダルシムガイルだろ
70 ヒョウ(北海道):2012/06/26(火) 05:37:09.94 ID:qeGQT/fc0
これは踊ってるわ
71 アンデスネコ(東京都):2012/06/26(火) 08:48:23.37 ID:MhMvI7uu0
高校の歴史の授業では
日本が誇る無能軍人牟田口の存在を
教えているの?
72 チーター(福岡県):2012/06/26(火) 08:59:04.01 ID:VImJUbS20
牟田口への怨嗟と戦争に負けた無念の気持ちを、上は将官、下は軍属に
至るまで全員で満身創痍の姿でダンスで表現っていう展開よろ
73 ヒマラヤン(関西・北陸):2012/06/26(火) 09:15:10.68 ID:xscyCW4xO
牟田口、富永は語り継がれるべき
74 ヒマラヤン(関西・北陸):2012/06/26(火) 09:16:54.60 ID:oPdZNKUmO
ホルホル
75 ラ・パーマ(京都府):2012/06/26(火) 09:19:04.96 ID:yizMH0gd0
[ ::━◎]ノ 牟田ー、踊る負け戦.
76 ラガマフィン(新疆ウイグル自治区):2012/06/26(火) 09:21:01.47 ID:NNzcWFUT0
俺はネトウヨだけども、こういう意見には眉に唾つけたくなる。
日本がアジアに信仰したのは、国際政治という将棋盤で日本の
国益が最大になるように日本軍という駒を動かしただけの話。
アジアの開放なんてのは大義名分であってね。
結局、大日本帝国はすべてを失ってしまったけどな。
しかし、国益を最大にするべく軍隊を動かす、政治、経済、情報を
操作するなんてのは世界中がやってること。その中で悲劇も生まれる。
それなのに日本だけ鬼畜生のようにいう連中が頭にくる。
77 パンパスネコ(東京都):2012/06/26(火) 09:21:38.67 ID:gxEnXzmy0
小説とか読むと、
インド軍はイギリスと一緒に
日本にフルボッコにされてるイメージ
78 チーター(大阪府):2012/06/26(火) 09:23:08.45 ID:Xcm5Pfyl0
> 日本の 国益が最大になるように日本軍という駒を動かしただけ
これも怪しいな。一部の利権の為じゃないの
79 ソマリ(大阪府):2012/06/26(火) 10:32:23.64 ID:w8TBxb9C0
>>68
じいちゃん大変だったな。
>撤退の時に、富士山より高い山々を越えることになったが
基兵団かな?
「空もさくるか 砲爆撃に ラエ・サラモアも山谷かわる
なんだ貴様も生きてたか 見ろよ 陣地はあとかたなしだ
山も消えたよ 森もなし」

マッカーサーが「ブナをとれなければ生きて帰ってくるな」とアイケルバーガーに命令を出し
アイケルバーガーも「屍の山を築け」と命令した恐ろしい戦場だよ。

ブナ地区で陣地をしいていた岡部支隊は海岸からは米軍、山側からはオーストラリア軍に挟まれて
だんだん食糧が不足してきて、マラリア患者も増えてくる。
こんな状況の時に、中野秀光中将の第五一師団(基兵団)が到着。岡部支隊に食料を送ろうとしたそのとき
米豪軍の一斉攻撃が始まった。時に昭和18年5月のことであった。


すでに両軍団に囲まれ、ささえてたが、米軍がナッソー湾に上陸、オーストラリアの一個師団がブソ河、ナサブ平原に
オーストラリアが落下傘部隊が降りてきて、基兵団は三方から挟まれることになった。
マダンにいる総司令の安達は助けたかったが、ダンピール海峡は制空権をすでにとられ、帝国海軍には魔の海とかしていた
玉砕をふせぐには、二つのコースしかない。
1.フィニステール山脈の南側伝いにマダンの方向へ行くコース。ただしオーストラリア軍がまちぶせしている
2. ラエの後ろにそびえる標高4500mのサラワケット山脈を越えて、キアリに抜ける道。ただし現地の原住民も道を知らない
結局、2の道を選ぶわけだが、一週間の食料を背負うのがせいいっぱいだった。歩けないものの自決まで起こったので
参謀の鈴木元明中佐が自決を禁じ、船舶工兵第一中隊の寺村貞一大尉と相談し、大装艇5隻で夜霧にまぎれて
ラエを就航させ、魔のダンピール海峡超えに成功し、無事生還させている。
一方、基兵団は9月15日、ラエ・サラモアをあとにして、蜘蛛にそびえる大山脈へと出発していった。。。
次回、「うらみはふかしサラワケット」をご期待ください
80 パンパスネコ(家):2012/06/26(火) 10:42:34.62 ID:nrlWrDSM0
なぜか戦勝国といいはる朝鮮人w
81 ソマリ(大阪府):2012/06/26(火) 11:00:14.57 ID:w8TBxb9C0
さて、基兵団のはじめの三日間は大森林地帯が続いた。海抜500mの
ケメンという小さな部落にたどり着く。この時点ですでに200名が斃れていた。

ここからは、木の根、岩かどにあしをかけてのぼらねばならない
3500mのツカケットというところについたときには、さらに500名の将兵が減っていた。
ここからは、大断崖と深い谷の連続だった。そこに見えている向こう側の崖にたどりつくために1日も二日もかかる
こともあったという。
食料ははやくもつきて、木の根や草をたべて、命をつないでいた。しかも山頂に近づくにつれて、積雪は深く凍り付き
夜の気温は氷点下20度まで下がるのだ。将兵はボロボロの夏服一枚きたきりである。南緯5度の熱帯地で凍死するモノ
が続出した。手が凍って、岩角をもちきれなくなり、底知れぬ谷へ落下するものもある
ツカケットから頂上までにさらに800人が命をおとした。

やっと頂上に着いたものの、傾斜はさらに急で断崖をおりていかねばならぬ。余談になるが、この山越え隊を先導していたのが
オリンピックのマラソン代表だった北本正路工兵中尉だった。彼は現地で大酋長なみの尊敬を受けていて、
彼の工作隊は、10人の体力自慢の日本兵と3人の台湾高砂族義勇兵で編成されていた。余談が すぎた。

つとめははたせども ふたたびくだる命令に サラワケットを超えゆけば ラエ・サラモアは雲低し。

到着予定地のキアリに食料と医薬品をあつめ待っていた救護隊の岡少佐らは、いつまでたってもこない
基兵団を心配して、彼らもサラワケットに向かう。この救護隊と、基兵団の先頭がであったのはラエ出発から3週間のちであった。

ただこれで悲劇は終わらなかった。このとき、キアリには片桐滋師団長のひきいる第二〇師団の生き残り部隊が
到着していたが、疲れ切った基兵団と彼らの前のグンビ岬に米軍があらわれ、再び、フィンシュハーケンのオーストラリア
にはさまれ、またしてもフィニステール山脈をたて一筋に走って、マダンまでの300キロの行軍にはいらなければならなかったのである(T_T)
時に、昭和19年、1月18日のことであった。
82 黒トラ(四国地方):2012/06/26(火) 11:05:45.42 ID:dpB0UzyG0

捏造報道を盲信する左翼の人たちって・・・

マッカーサーが 「 オレ心底天皇を尊敬するわ 」 → http://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk&feature=related

マッカーサーが国連で日本を擁護演説 「 オレたちが日本を開戦に追い込んでたわ ワロタ 」 → http://www.youtube.com/watch?v=-zR5oqHGNLE#t=5m35s
83 ソマリ(大阪府):2012/06/26(火) 11:11:09.62 ID:w8TBxb9C0
>マッカーサーが「ブナをとれなければ生きて帰ってくるな」とアイケルバーガーに命令を出し
アイケルバーガーも「屍の山を築け」と命令した恐ろしい戦場だよ。
一応ソース出しておこう

More: He has been personally charged by GEN Douglas MacArthur with reenergizing the faltering
U.S. effort at Buna. MacArthur?s order to him was direct and brutal:

"Take Buna, Bob, or dont come back alive." After visiting the front, Eichelberger relieves
the 32nd Infantry Division commander on December 2 and replaces him with Brig. Gen. Albert Waldron.
ttp://www.usarpac.army.mil/history2/history_dec.asp

84 イリオモテヤマネコ(神奈川県):2012/06/26(火) 11:20:34.56 ID:qFn6USIt0
しかし本編の2/3は大勢のインド人が踊り出すシーンに充てられる
85 ボンベイ(やわらか銀行):2012/06/26(火) 11:32:41.77 ID:gM1VDd/y0
芸人がインド映画に出してくれって頼む番組見たけど
現場の即興なのにえらい雰囲気ある映像だったから
多分スタッフは日本より格上だぞ
86 スナドリネコ(北海道):2012/06/26(火) 13:02:22.56 ID:Tb9AxcqOO
牟田口ぇぇぇ
87 シャルトリュー(中国):2012/06/26(火) 13:05:28.90 ID:fz9GD39C0
ドヤ顔のネトウヨに保守評論家山本七平さんからプレゼント↓

本稿の最初の言葉は、山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』の中にあるも
のだが、山本氏はフィリッピンで捕虜になって護送されるとき、日本軍と米
軍の差に圧倒されたのである。物量の差ではなく、現地住民の扱いの差に。

山本氏の部隊がフィリピンを離れるとき、憎悪の罵声と石の雨をあびせられた。
護送する米軍の威嚇射撃でかろうじてリンチを免れたのだが、レイテ戦のあと
で付近の島に逃避した日本軍の小部隊は、住民からすさまじいリンチを受けた
そうである。小島嶼の守備隊は、無戦闘で上陸し、終戦まで無戦闘だったにも
かかわらず、終戦後のリンチによって公式記録に留められることなく消されて
しまったものが多いという。

その数年前に米軍がフィリピンで敗退したときはどうだったか。「バターンの
死の行進」のとき、住民は沿道にむらがり、米兵に花を投げた。タバコを差し
出し、水を飲ませた。護送の日本兵がいくら追い払ってもだめだったそうである。

ベトナム戦争で米国がサイゴンから撤収するときは、何万もの難民がそのあと
を追って脱出しようとした(これは私もテレビで見て、覚えている)。石を投
げるものはいなかったし、米兵の落ち武者狩りもなかった。山本氏は、自分自
身の体験と比べて、記事を読むのが苦痛になったと述べている。私も、こうし
た違いを見せつけられるのは苦痛である。
88 ヨーロッパヤマネコ(熊本県):2012/06/26(火) 13:24:20.53 ID:Br9xIUbw0
>>87
詐欺師・山本七兵を出して、ドヤ顏のブサヨwww

ウイキーペディア参照しろよ。左派ですら信じてない人間だぞ
89 チーター(福岡県):2012/06/26(火) 13:24:38.48 ID:VImJUbS20
>>87
日本軍がアジア各地で賞賛されてばかりだったなんて、そんな事余程の池沼
じゃない限り考えてないと思うぞw
90 ヨーロッパヤマネコ(熊本県):2012/06/26(火) 13:35:52.66 ID:Br9xIUbw0
ウイキーペディアより転載

山本の著作には記憶に頼った不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しない。ことに浅見定雄の批判により、山本の著作の中には、単に結果として事実認識や論理展開を誤っただけでなく、
91 ヨーロッパヤマネコ(熊本県):2012/06/26(火) 13:36:35.27 ID:Br9xIUbw0
読者をあざむくために意図的・積極的に虚偽の事実を示している事例があることも広く知られるようになり、それ以降、山本は真面目に相手にするに値しない、ほとんど詐欺師に近い人物であるとの評価が定着している。

転載おわり
92 ヨーロッパヤマネコ(熊本県):2012/06/26(火) 13:39:08.32 ID:Br9xIUbw0
情報が乏しい戦後にいちじき
93 ヒマラヤン(会社):2012/06/26(火) 13:39:35.18 ID:ADdtEooF0
まぁとりあえず無駄口叩くな牟田口叩けと
94 ヨーロッパヤマネコ(熊本県):2012/06/26(火) 13:42:42.85 ID:Br9xIUbw0
注目されたけど、事実と大きく異なる
…と引き揚げ戦友らの面談を、悉く避け続けて亡くなったよね

安いサヨク本の、受売りでしょ
その書き込み
95 スナネコ(東京都):2012/06/26(火) 13:47:23.91 ID:Er/TmlAY0
物資の現地徴用とか、約束した独立をいつまでたってもやらせてくれないので、
それまで協力的だったビルマの独立勢力(スーチー女史の父親が率いていた)も、
最終的に日本軍を見限って敵に回ったんだよな。
96 ソマリ(大阪府):2012/06/26(火) 14:57:00.96 ID:w8TBxb9C0
>>87
1895年8月 ホセ-ラモスが日本に亡命
1896年5月 マニラ入港中の「金剛」の艦長世良田と接触、代表ハシント
が天皇に親書「カティプーナンが願う自由と独立は、日本の支援によって実現されます
日本はフィリピンを助けることのできる極東で唯一の国です」カティプーナン機関誌「自由」を横浜から発行
「まもなく日本が我々を救いに来る」という噂がマニラで広まる
1896年8月 カティプーナン蜂起。スペインとの戦いを始める
1898年4月 スペインと革命軍との戦いにアメリカが参戦
建前
*キューバの自由主義者をスペインの圧政から解放*フィリピンの独立を支援
本音
*中国大陸進出の足場
1998年8月米の動向が怪しいとにらんだ革命政府はポンセ・F=チャウコを日本へ派遣。
ポンセは福島安正・孫文・犬養毅と会談・武器調達を約束
8月14日フィリピン全土に軍政宣言。
大統領マッキンレーが「友愛的同化宣言」を発表。フィリピン植民地化
1899年1月
革命政府首班のマビニが話し合いで解決しようとするが米は無視

1899年2月
アメリカ側の発砲でフィリピン・アメリカ戦争勃発→マビニ強行派へ
1899年7月
日本から革命政府との盟約に基づいて
革命軍に協力する原中佐以下がフィリピンに渡る
弾薬を積んだ布引丸を出航させるが
上海沖で台風にあって沈没。

このように日本の革命軍参加は失敗するが、それにもかかわらず
日本への期待はルソン島の民衆に生き続け、「メシア運動」へと引き継がれる。
米比戦争はwikiで英語版をどうぞ。
97 ソマリ(大阪府):2012/06/26(火) 14:58:56.47 ID:w8TBxb9C0
>>87
メシア運動 アメリカの圧政と弾圧
↓あいついで反乱
スリガオ・レイテ・サマール・ネグロス・ルソンで反乱
ルソンでは「日本が助けてくれる」という宣伝工作で大反乱
カポーラの会
「日本の天皇が私たちを支持している」として、小作農
・農業労働者16000人が決起。

1925年3月 治安警察軍により壊滅→運動はフィリピン民族連盟へ
カティプーナンーバーヤン、日本亡命中の革命闘士リカルテの
偽書をばらないて「日本が助けに来る」と喧伝

10万人を擁した反乱→治安警察軍によって鎮圧。世界恐慌がフィリピン経済を圧迫
ケソン・オスメーニャの国民党に対して「反米親日」のサクダル党が躍進
米の提案した独立法に対して即時独立を主張
1934年の中間選挙に大勝→実力行使で即時独立を求めるべく反乱
「日本から武器弾薬が来る」と喧伝。

65000人の反乱→治安警察軍によって鎮圧

アメリカとフィリピンが戦争していたとき、フィリピン革命政府は日本に支援を要請する。
革命政府は日本から機関紙を発行し、「日本から援助が来る」という宣伝をする
アメリカが介入し、「軍政宣言」ついで「友愛的同化宣言」
「日本の天皇の支持」を合言葉にカポーラの会16000人反乱、日本滞在中の
リカルテの偽書をばらまいてフィリピン民族連盟が10万人の反乱。
米の独立法に反抗して「反米親日」勢力が議会で過半数。アメリカの拒否権で
議会を離れ65000人の反乱。反乱阻止
この間米は日本をけん制し続け、日本は動かず。
98 ソマリ(大阪府):2012/06/26(火) 15:01:51.11 ID:w8TBxb9C0
>>87
「皇太子殿下ご夫妻(今上・皇后両陛下)は訪比二日目の六日(昭和37年11月)昼、
キャビテ州カワイトー村で「比国独立運動の父」アギナルド将軍(第一代フィリピン
共和国大統領(1869−1964)にお会いになった。

将軍がフィリピンの独立をはかって明治二十九年から六年間、当時の米軍に捕らわ
れるまで、反乱軍を指揮、スペインや米軍と戦ってきた。
そのとき、日本に援助を求めたことから、将軍と日本の関係が結ばれた。

ご夫妻がたずねられると、九十三歳の老将軍は、足が不自由のため手押し車につか
まってやっと立ち上がり、ご夫妻と握手。

ほとんど目の見えない将軍が、皇太子殿下の「将軍に会えてうれしい」とのおことば
に「日本の国はありがたい国だ。
ご夫妻にぜひお会いしたかった。

この機会がくるのを待っていた。
わたしが反乱を起こしたとき、反乱軍が弱く心細かった。
そのとき日本の天皇からという日本刀が届いて、元気づけられ、独立のため戦い続ける
ことが出来た」と答えた。

また、将軍は「そのときの天皇はだれでしたか」と質問、殿下は「それは曽祖父に当る明治
天皇です」とお答えになるなど、なごやかに訳三十分歓談され、皇太子殿下からは将軍に
天皇陛下のお写真とご夫妻の写真を贈られた。」

    (昭和37年11月7日付  「東京新聞」朝刊)
彼の独立宣言だしたときがフィリピンの独立記念日。アメリカからの独立記念日ではない
99 ソマリ(大阪府)
>>87
フィリピンでは歴史的に中国人はゴミ扱い

Spanish Policy Towered the Japanese日本人と中国人との待遇の違いについて

The Japanese settlers in the Philippines were fewer than Chinese. They were better treated be Spanish
authorities and no discriminatory laws were made against them, unlike in the case of the Chinese. This was
due to the fact that the Japanese were a valiant and fighting people, hence the Spaniards feared and respected
them. As Dr.Morga said "They are treated very cordially, as they are a race that demand good treatment, and it is
advisable to do so for the friendly relations between the Island and Japan

中国人の侵略に日本人が立ち上がってマニラをまもった歴史
In the night of S.Francis Day,October 3 1603, the Chinese struck.
They attacked Tondo and Quiapo,setting the buildings on fire
and killing inhabitants.
Emboldened by their initial success, the Chinese stormed the
city walls. The Spanish friars, fighting with crucifixes and
swords, inspired the Filipino-Spanish defenders during bloody
hand to hand combat. One of them, Bro. Antonio Flores fought
with valor. The Japanese residents fought valiantly side by
side with the Filipino and Spaniards. The Chinese attack was
repulse