大槻教授「方丈記、徒然草は駄文にすぎない。表現がオソマツでこれに感動するのは愚か」
だれでも国語の時間には国語の先生が『方丈記』や『徒然草』を読み聞かせて、
その素晴らしさに感動を与えようとします。多くの生徒は感動しました。
あるいは感動したフリをしました。私もそうでした。
なんとつまらない哲学、くださらないエッセイか、と内心思いました。
しかし、と私は考えなおしました。内容がばかばかしく思えるのは自分がまだ若いせいなのだ。
もっと歳をとればこれらのエッセイの語る世界観、人生観が分かるときがくるのだろう。
このエッセイに含まれるという『無常観』『仏教哲学』などは若造には分からないのだ、と思うようにしました。
そしてそのまま時節は過ぎました。
すでに50歳に近くなってドイツ、ミュンヒェン大学の客員教授としてミュンヒェン郊外にひとり住まいをしたのでした。
『つれづれなるままに』方丈記と徒然草を読み返しました。
相も変わらずくだらない、人のうわさ話であった。面白くも何ともない。
そうか、もっと歳をとってみなければこのような名著、古典を理解できないのか。
70歳を越したら再び読み返そう、と思いました。それから30年近く。
最近、改めてこれら古典を時間をかけて読み返しました。
ああ、やっぱりつまらないエッセイだった。
無常観も浅薄、仏教哲学も軽くなぞった程度であとは人のうわさ話、権力者の勢力争い、
自然の風物の美しさも表現がオソマツだ。これに感動などするも愚か。
文系の方、反論はおありですか?古典文学の方々、大槻の教養のなさ、文学的素養のなさをお笑いください。
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