1970年代末の京大工学部は東大医学部より入るのが難しかった

このエントリーをはてなブックマークに追加
1 ステマ撲滅運動家(愛知県)

続・受験と私:「遊びながら競い合い 応用技身につけた」 飯田哲也さん(環境エネルギー政策研究所所長)

 高校は、山口県内の普通高校に1クラスずつあった理数科で、事実上の進学クラスでした。
学ぶことを遊ぶような雰囲気があって、1年のころから数学の複素数の問題を解きあったりしていましたね。
仲間同士で、難しい問題をいかに美しく、やさしく解くか、おもしろい問題を見つけてきて、
相手を困らせられるかを競い合っていました。

 期末や中間テストの前も、試験対策と称して、クラスのたまり場になっていた家に十数人で集まって、
半分はトランプやマージャンで遊びながら、一方で(勉強の)問題を出し合ったりした。
僕は、受験勉強のために机にかじりついて地道に問題を解くような性分ではなかったので、
勉強のほとんどは集中力と記憶力。教科書に出ているレベルは、授業を集中して聞くことでクリアしました。
入試問題にあるような、数学や物理の応用技や、トレーニングが必要な英語のイディオムなどは、
仲間と遊びながら自然と身についた感じです。

 僕のころは(大学入試)センター試験、共通1次より前の大学個別入試の時代だったので、
試験は大学ごとに特徴がありました。京都大は数学が難しいという定評があって、英語は比較的やさしかった。
僕は昔、数学が得意だったので、京都大が自分向きだと思って、志望を絞って勉強しました。
京都大は、日本初のノーベル賞受賞者を出した大学でしたし、自由な校風で、
東京大にはない格別の雰囲気を感じて、あこがれていました。

 大学入試向けの模擬テストで、3年の夏ごろには京都大の合格ラインに入ったので、
たぶん大丈夫だろうという感じはありました。
ただ、米・スリーマイル島の原発事故(1979年)が起きる前のそのころ、
京都大の原子核工学は、東京大医学部より難しかったんです。
20人しか定員がなくて、医学部より最低点が高いので、ギャンブルだなとも思っていました。

>>2以降に続く)
http://mainichi.jp/life/edu/news/20120123mog00m040022000c.html