δδδ スレ立て依頼所 δδδ

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596名無しさん@涙目です。(アラバマ州)
スレタイ:クレアおばさんのシチューの秘密って何なの?

俺は大した俳優じゃなかった

 日本の演劇人として世界を目指した蜷川幸雄は、欧州でのいくつもの挑戦を経て「世界のニナガワ」と呼ばれるようになった。
けれど、蜷川の冒険心は、その称号を得る前も得た後も、何ひとつ変わっていない。彼が今も「挑む人」であり続けられるのは、その心にとどめている原風景と無関係ではない。

 蜷川は第二次世界大戦が開戦する6年前、埼玉県川口市で生まれた。

 「工場のある街です。夕方になると空に火がボウボウと見える。火事みたいにキューポラ(煙突)から火が燃え上がっているんですよ。
猛々(たけだけ)しい、あるいは不吉な、そういう風景が僕の日常でした」

 父親は洋服の仕立屋を営んでいた。

 「両親は富山の出身。父は農家の次男で、中学を卒業した後、手に職をつけるため東京へ出てきて、隅田川の界隈(かいわい)の洋服屋で修業していました。
そして、10代で母と結婚して家庭を持った。田舎から出てきた若い2人は、いろんな夢を描いたんだと思いますよ」

 普段は洋服を黙々と作っている父は、ときには家族に手料理を振る舞った。

 「修業時代に(東京都)墨田区界隈の食堂で食べたシチューがおいしかったと言って、僕が幼い頃、よく家で作ってくれました。
富山の田舎の少年だった彼が、テーラーを目指すぐらいだから、ハイカラでおしゃれなところがあったんでしょう」

 そんな父の店には、パリのサロンさながらに貧しい画家たちが集い、絵を描いていた。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111023/ent11102308170004-n1.htm