ネット上の発言の劣化について
内田樹 神戸女学院大学名誉教授。
個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。
攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。
(中略)
自分自身が送受信している情報の価値についての過大評価。
自分が発信する情報の価値について、「信頼性の高い第三者」を呼び出して、それに吟味と保証を依頼するという基本的なマナーが欠落しているのである。
ここでいう「信頼性の高い第三者」というのは実在する人間や機関のことではない。
そうではなくて、「言論の自由」という原理のことである。
言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、
そうでないものは消え去るという「場の審判力に対する信認」のことである。
情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待のことである。
それは自分が言葉を差し出す「場」に対する敬意として示される。
根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、
それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに「言論の自由」に対する侵害として退けられなければならないのである。
繰り返し書いている通り、挙証の手間暇や、情理を尽くした説得を怠るものは、言論の場の審判力を信じていない。
真理についての検証に先だって、自分はすでに真理性を確保していると主張する人間は、
聴き手に向かって「お前がオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」と言い募っているのである。
それは言い換えると「お前なんか、いてもいなくてもおんなじなんだよ」ということである。
私たちはそういう言葉を聴かされているうちに、しだいしだいに生命力が萎えてくる。
それはある種の「呪い」である。
言論の自由には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思う。
情報の「層」化が進行し、私たちはいま「情報の階層化」のフェーズに入っている。
http://news.livedoor.com/article/detail/5750926/