>海援隊結成から程なく「いろは丸事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船「いろは丸」が
>瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は
>大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法を基に紀州藩側の過失を厳しく追求、さらには紀州藩を批判する流行歌まで流行らせるなどした。
>後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって5月に紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が
>主張したミニエー銃400丁など銃火器3万5,630両や金塊や陶器などの品4万7,896両198文の賠償金8万3,526両198文の支払に同意した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC ↓
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歴史の真実
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近年沈没したいろは丸に対して行われた調査では、龍馬が主張した銃火器などは見つかっていないことが明らかになっている。
リーフレット京都 No.216(2006年12月)PDF - (財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
http://www.kyoto-arc.or.jp/leaflet/216.pdf