「暴力」という言葉が学問では別の意味合いで使われるとすれば、
仙谷官房長官が「自衛隊は暴力装置だ」と言っても、別段日常語の意味合いではなく問題はない、
当然ではないかという意見もある。ブログにも見られた。
例えば、ブログおおやにき「暴力装置」(参照)ではこう述べている。
いやいや何を言っているんだ自衛隊は国家の暴力装置に決まってるだろう
(参照:「仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 参院予算委で発言、撤回」(asahi.com))。
国家が(ほぼ)独占的に保有する暴力こそがその強制力の保証だというのは政治学にせよ法哲学にせよ基本中の基本であり、
その中心をなすのが「外向きの暴力」としての軍隊と「内向きの暴力」としての警察である。
また池田信夫 blog「アナーキー・国家・ユートピア」(参照)でもどうようの意見が見られる。
軍隊が暴力装置であり、国家の本質は暴力の独占だというのは、マキャベリ以来の政治学の常識である。
それを「更迭に値する自衛隊否定」と騒ぐ産経新聞は、日本の右翼のお粗末な知的水準を露呈してしまった。
自民党の石破政務調査会長もかつて同種の意見を述べたことがある。「第7回朝日アジアフェロー・フォーラム」(参照)より。
破綻国家においてどうしてテロは起こるのかというと、
警察と軍隊という暴力装置を独占していないのであんなことが起こるのだということなんだろうと私は思っています。
国家の定義というのは、警察と軍隊という暴力装置を合法的に所有するというのが国家の1つの定義のはずなので、
ところが、それがなくなってしまうと、武力を統制する主体がなくなってしまってああいうことが起こるのだと。
いずれも識者の見解であり、仙谷官房長官もまたそれに並ぶ見解にすぎず、
なにが失言なのかという疑問が出るのは当然だろう。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/11/post-7cd1.html