横浜の華僑「終戦後は中国が連合国だったから配給たくさんあったよ〜それ売って大儲けした」

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1 アデヤッコ(dion軍)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20100529/CK2010052902000067.html
8000人以上が死亡、31万人が被災したとされる横浜大空襲から29日で65年。横浜中華街の復興
とともに歩んできた横浜華僑総会名誉会長の曽徳深さん(70)は、平和への願いを込め、これまで
あまり語ることがなかった自らの戦争体験を語り始めた。 (細見春萌)

 一九四五年五月二十九日は、よく晴れた日だった。午前九時二十分ごろの大空襲に、「火が来ているぞ」。
住んでいた中華街近くの防空壕(ごう)の戸をたたく音に、慌てて外へ飛び出した。夜間でなく、昼間の空襲は
初めて。父は仕事で不在。母と姉二人、三歳の弟と必死に山下公園まで走った。
翌日、近くの炊き出しは「焦げ臭いおにぎりを食べた」とおぼろげに覚えている。山下公園から中華街一帯は
見渡す限りの焼け野原。ニューグランドホテルや県庁など一部の建物だけが残っていた。食べものはなく
雑草を摘んでスープにした。おいしかった。
終戦後、中国が連合国の一員だったため中華街には、物資は比較的潤沢に配給された。小麦粉や砂糖を
使って、トタン造りの粗末な小屋の前で両親がドーナツを揚げて売ると、長蛇の列ができた。街は、食料を
求める客でにぎわいを見せた。
それから六十五年。これまで「平和な日本で、必要性を感じなかった」からと、横浜大空襲などについて
語ることはほとんどなかった。ただ、節目の年を迎え「もう一度、平和について考えてみよう」と思いは変わった。
華僑は、日本でも中国でも選挙権はなく、直接、政治に参加できない。だが「もし、日本で戦争があった時
影響は受ける」との思いを抱え、自らの戦争体験や当時の中華街の様子などを講演などで語るようになった。
広東料理店や食材店を経営する一方、横浜に住む華僑へのサポート活動などをする「横浜華僑総会」の
名誉会長のほか、中華街にある商店街の組合理事長を務め、街づくりにも取り組んでいる。
「人が生きる中華街はテーマパークではないが、『国際化』というテーマを持たされた街。食や文化を通じて
国際平和に貢献していけたら」
2 ウキゴリ(愛知県):2010/05/29(土) 12:33:50.71 ID:OB4KJHhH
ちんこ
3 アデヤッコ(東京都)
起こらないかもしれない戦争のことより起きている在日中国人の犯罪行為について考えろよ
進歩のない土人共だな