東浩紀 (三島賞作家・早稲田大学教授)
ttp://togetter.com/li/24576 東「 先週の復習を軽くすると、ゼロ年代は物語の困難に陥った時代であり、物語ゼロ、
メタ物語、セカイ系の3つが生まれた時代であると」
東「 セカイ系に対する批判というのは、女の子が出てきて男の子が出てきてなんか
戦争してる、内容ないじゃん、内容書けよ、みたいなものだったんですけど、
宇野くんの『ゼロ年代の想像力』におけるセカイ系批判っていうのは違ったんです」
東「 宇野くんによれば、1995年〜2001年までがセカイ系が想像力として有効だった時代で、
それ以降――宇野くんによれば、小泉政権が分岐点なんですが――ネオリベの時代、
東「 「決断主義」「バトルロワイヤル」的な想像力の時代になったということです」
東「 『決断主義』『バトルロワイヤル』を簡単に説明すると、それ以前のセカイ系の想像力
――例えば『エヴァンゲリオン』が「正義なんてどこにもない」と主張したのに対し、
それ以降の『デスノート』などでは「正義はない。だから俺が正義になる」といったものなんです」
「 あと仮面ライダー龍騎のキャッチコピーが『戦わなければ生き残れない』というんですが、
そういう感じです。決断主義っていうのは」
東「 で、宇野くんはここからがショボいんですけど笑 彼は「友達から始めよう」と主張するわけですね。
「 世界は救えないし、引きこもれない」から、周りの小さな共同体の中で生きる、と。
そして彼は宮藤官九郎やよしながふみなんかの作品がそういうのを描いていると主張しているんです」
東「 『ゼロ年代の想像力』の内容はこんなところです」
「 そして、宇野くんの本が素晴らしかったのは、『日本のサブカルを論じることで、結果的に、リベラリ
ズムとリバタリアニズムとコミュニタリズムの3つの類型を全て取り出した』ということにあるんです。
彼は気付いていませんでしたが」
東「 つまり、宇野くんの分析を考え直したとき、セカイ系=リベラリズム、決断主義=リバタリアニズム、
『友達から始めよう』=コミュニタリズム、という類型化が可能である、と」
東「 草食系男子の恋愛ファンタジーというかね、『リアルのゆくえ』っていう大塚英志と
僕との対談本があるんですが大塚英志は男主人公の「無力さ」つまり「不能な自分の自己肯定」
みたいなのをすごく批判してます。そしてそれは宇野くんのセカイ系批判にも繋がってくるので
重要な議論かもしれません」
東「 SFファンタジーに変形した私小説、みたいな面白さがあるんですよね。新海さんの作品は大体
『傷つきやすい私=キャラクター』みたいなところがあってね……、あと重要なイメージとして
『教室=セカイ』という点があります」
「 『ほしのこえ』『バトルロワイヤル』『ノブタをプロデュース』『涼宮ハルヒの憂鬱』……、ゼロ年代は
教室文学の時代だったということも言えるかもしれません。そういう想像力のイメージの元ネタは
多分全共闘だと思うんですが……」
東「 まあゼロ年代っていうのは『限定されたメンバー間での競争』っていうのが前景化された時代で、
その象徴として『教室』という閉鎖空間に閉じられたキャラクターたちを描いたのがゼロ年代の
想像力の特徴とは言えるかもしれませんね。」
>>1 (抜粋・終わり)