チャンネル桜のデモ活動に夢中になるバカ女 周りにバカされても日本のためなどと意味不明なことを

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これだ。

『<癒し>のナショナリズム』
著者からのひとこと
第1回:あとがき Part2
小熊 英二 (慶應義塾大学教授)
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/humanity/iyashi/1.html
 私は「史の会」や「つくる会」につどう人びとが、ある種の解放を求めているということは否定しない。
上野もいうように、彼らは平均よりも「真面目さ」と「熱情」をもつ人びとなのかもしれない。
しかし私が彼らに言いたいことがあるとすれば、一つはそのような「真面目さ」が、マイノリティや国内政治、国際関係に
どのような影響を及ぼしているかを、主観を離れて考えて欲しいということ。
そしてもう一つは、「そんなことをしていて本当に楽しいですか」ということである。

 上野によれば、彼らには「普通」という以外に、「自らを表象することば」がない。
「サヨク」や「朝日」などを「普通でないもの」として排除し、その消去法としてみずからを「普通」と位置づけることしかできていない。
しかし本文でも記したように、彼らは現実の「左翼」をほとんど知らないまま、
自分のつくりあげた「サヨク」の像を非難するばかりである。
「つくる会」の幹部たちもまた、「戦後民主主義」の何たるかをほとんど知らないまま、ひたすらそれを批判して「アンチ左派」の立場を定めている。

 他者との関係で自己の位置を定めるのは、通常の現象である。
しかし彼らがやっているのは、自己の内部でつくりあげた「サヨク」や「戦後民主主義」を批判することで、
あるいはやはり自己の内部でつくりあげた「戦前の日本」や「伝統」の像に同一化することで、自己を位置づけようとしていることである。
他者といっても自己の内部の投影でしかないとすれば、自己の内部で空回りしているだけだ。
これはすなわち、「自分の髭をひっぱって沼から抜け出そうとした男」という逸話に近い行為でしかない。
そんなことで満足を得られるとは、私には考えられないのである。