悼む:ハンセン病回復者、元青い鳥楽団楽長・近藤宏一さん=10月5日死去・83歳
◇希望へ命の炎燃やし−−近藤宏一(こんどう・こういち)さん=悪性リンパ腫のため10月5日死去・83歳
「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処(どこ)にも光はない」。ハンセン病療養所・
長島愛生園(岡山県)で生涯を閉じた歌人の明石海人は、歌集「白描」の序文に、こう記した。近藤さんが
同園に隔離されたのはその前年の1938年。明石の言葉のように、深い絶望の中からいちるの希望を求めて命の炎を燃やした人だった。
11歳で母親を亡くし、間もなく大阪を後にした。戦後、赤痢患者の介護で感染するなど過酷な園内労働
がたたって失明し、手足にも障害が残った。そんな時、同じ境遇の仲間が声を上げた。「体は不自由でも、
おれたちの生きがいを求めよう」。53年、父親が荷物の片隅にしのばせてくれていたハーモニカを手に、12人で「青い鳥楽団」を結成、楽長を務めた。
残された舌や唇の感覚で点字の音符を覚え、時に唇が切れて譜面は赤く染まった。「あおいとり行進曲」はじめ、
オリジナルも手がけた。血のにじむ努力と周囲の支えで東京や大阪など園内外で約50回の演奏会を成功させ、活動は76年まで続いた。
それから20年。患者を強制隔離した「らい予防法」廃止を機に次第に講演が増え、その縁で05年、ついに故郷の土を踏んだ。
「私たちは被害者だったが、敗北者ではなかった」。万感の思いが込められたメッセージと、会場を包んだ「ふるさと」の合唱を、忘れることはないだろう。
月の沙漠、スキーの歌、ガボット、ツィゴイネルワイゼン……。実直な人柄そのものに背筋をピンとのばして奏でる、
巧みで優しく力強いメロディーが今も聞こえる。思えば、出会った人にいつも感動と励ましを与えていた近藤さん自身が、青い鳥だったのだ。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091028ddm012070092000c.html