日本倫理思想史スレ、和辻あたりからでもおっけーです、語れる人集まれー
あつまれー
2 :
ノイズe(東京都):2009/10/24(土) 03:17:00.55 ID:fQ2fTS4C
ち
3 :
モズク:2009/10/24(土) 03:17:11.41 ID:hVq/bhAQ
ろ・・・倫理?
4 :
ノイズf(岐阜県):2009/10/24(土) 03:17:35.20 ID:IAI6yIoD
佐々木は?
5 :
ノイズc(静岡県):2009/10/24(土) 03:17:49.95 ID:n4boOH2D
倫理選択は甘え
6 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 03:18:42.81 ID:4lkP8MfV
>>1 本当に立てたのかよw
ν速民レベルじゃ無理だろ・・・
7 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 03:22:12.47 ID:4lkP8MfV
最近の人だと、菅野覚明とかどうですよ?
色々書いてるけど
8 :
ノイズf(宮城県):2009/10/24(土) 03:22:43.94 ID:kwziMUXX
ν速スレの勢い 上から
今期アニメ総合
今期アニメスレ★2
今から自殺します
なんか立てて欲しいスレある
ポイント乞食集まれー
ドイツの金持ち「我々の財産にもっと税を課してくれ。祖国を不況から助けたいんだ!」 一方日本は
「落合祐里香さんにそっくりな40代のおばさんがいる」とネットで話題に
結論 無理
9 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 03:34:27.29 ID:4lkP8MfV
まあ、ここでこのスレが伸びないというのは良しとしておこう
ここで構われること=穢されることだからな
お前らに道徳や倫理がν速程度で扱われるべき問題ではないという良識が残っていた
そう思うことにしよう
10 :
モズク:2009/10/24(土) 03:39:16.04 ID:CttLotrH
モラルとエシックスってどう違うの?
倫理と道徳は何が違うの?
マルタイ棒ラーメンは何種類あるの?
11 :
ノイズf(兵庫県):2009/10/24(土) 03:40:17.39 ID:rKkzqn4T
そもそも倫理てなに?
12 :
ノイズo(新潟・東北):2009/10/24(土) 03:44:02.14 ID:jeBDzFqo
「ハンバーガーはやっぱモスだよね!」
――和辻哲郎著『Fast 風土』
13 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 03:48:02.52 ID:4lkP8MfV
>>11 道徳哲学とでも考えておけばいいのではないかな。
ただ、日本倫理思想史というのは
主に、今まで日本人が生み出した思想をツールにして道徳を考えようという学問だから
扱う範囲が更に狭くなる
哲学のうちの倫理学、更にそのなかでも更にマイナーな分野かもしれないね
14 :
モズク:2009/10/24(土) 03:55:34.13 ID:1Q+3M9d4
柳田邦夫って柳田国男をぱくってるの?
15 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 03:56:34.84 ID:4lkP8MfV
16 :
ノイズc(福岡県):2009/10/24(土) 04:01:50.02 ID:bgM+FRxn
思ったより伸びてるなこのスレ
17 :
ノイズh(東京都):2009/10/24(土) 04:03:29.00 ID:5TlSE3os
日本でしかも「倫理」って狭いな。
イーグルトンとかハーバマスの話したかったけど帰るわ
>>11 >そもそも倫理てなに?
http://www.musashino-u.ac.jp/ao_mail_magazine/no081-100/no097.html 倫理学というのは、大雑把にいいますと、哲学的な学問のひとつの分野でご
ざいます。今日、ひと頃ほどではありませんけれども、倫理という言葉は世間
で大変流行っています。ただ、あまりいい意味では使われていないんですね。
生命倫理とか情報倫理とか、何とか倫理とか、だいたいロクでもないことが起
こると、「倫理を何とかせにゃならん」というようなかたちで、必ずしょうも
ないことと一緒になって表れてくる。そうするとおまえたちのところは、しょ
うもないことがあると儲かるのかというふうに思われるかもしれませんが、確
かに儲けている連中もいるわけですね。そういうことが起こると、あちこちで
「こうである、ああである」と。実は、その辺で今日の倫理のイメージがつく
られているようなところもあるのですが、ひと言で言いますと、いま言われて
いる、あるいは皆さまが思い描いている倫理というのは、これは昔の言葉でい
えば道徳ということです。
道徳というのは何だということを説明すると非常に長くなりますので、簡単
に言いますと、人間の文化はいろいろございますけれども、道徳と法律という
のは基本的に似ているところがございまして、言葉を考えてみますと、この二
つは命令文でできています。そういう言葉の世界でございます。「何々をする
な」とか、「何をしろ」とか、そういう意味では、命令文でできているので、
道徳と法律は非常に似通った性質を持っている。その命令文、「何々せよ」、
あるいは「するな」というつまり規範の世界です。規則の「規」に、模範の「
範」ですね。
19 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 04:07:58.30 ID:4lkP8MfV
続き
そういう意味で、いま倫理学というのは、だいたい規範の学問だというふう
に思われています。それは、命令文でできている学問ですから、うまく使えば
権力になるわけですね。ちゃんと理由があって、人に「こうせよ」ということ
を押し付けることができるわけであります。それで儲けようと思えば儲かるん
ですけれども、実はそういうタイプの、つまり「何々せよ」「何々するな」と
いうことを考える倫理、ないしは倫理学というのは、これは倫理の半分の側面
でございます。行為の規範を扱う、そのことを考える、そういう倫理学は実は、
倫理を扱う学問の半分の領域を占めております。今日問題になっている倫理と
いうのは、ほとんどそちらのほうでございまして、倫理学会なんかでも、だい
たい千何百人いる中で九百何十人ぐらいはそういうことを考えております。
ところが倫理学の発生を遡りますと、非常に古く、ギリシャの時代にありま
す。あるいは仏教の中にもある。じゃあ本来、倫理学というのはその規範を問
題にするものだったかというと、必ずしもそうではありません。実はもうひと
つ倫理学には、われわれが生きているということは何なのか、人生の意味とい
うのは何か、あるいは、われわれは何を根拠にして生きているか。そもそもひ
と言で言いますと、われわれがこうやって生きてあるということは何なのか、
そのことを問うものがもうひとつの倫理学としてあったわけです。われわれが
何であるのかというのと、どうしなければいけない、こうしなければいけない
というのは、これはセットで一つのことでありまして、「何々せよ」ばかりが
先行してしまうと、肝心の「私たちが何であるか」という部分が置き去りにさ
れかねない。
20 :
ノイズo(新潟・東北):2009/10/24(土) 04:08:14.03 ID:jeBDzFqo
そもそも日本の思想の大部分は「正学」だしな。幕府維持のための思想になんざ興味ない
21 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 04:08:39.22 ID:4lkP8MfV
続き
実は、「われわれがそもそも何であるか」とか、「人生とは何ぞや」という
ような、非常に古いタイプの倫理学というのはいまはあまり流行らない。流行
らないけれども、私はあまり流行るものをやるのは好きじゃないので、その古
いタイプのほうの倫理学をやっているということでございます。私は特にそう
いう古いタイプの倫理学を、日本の思想、仏教でも神道でも武士道でも儒教で
も、日本人がかつて人生というものをどういうふうに考えてきたか、そういう
ことを手掛かりにして研究しているわけでございますけれども、その日本の古
い思想の伝統の中では、人生とは何か、あるいは人生の意味、根拠、そのこと
を語る言葉として、「道」という言葉がありました。ですから、倫理というと
今日ではどうしても情報倫理とか、政治倫理とか、何々倫理というふうになる
ので、区別するために私はいろいろ喋る時には、自分がやっているのは古い「
道」の学問であるというようなことをお話して、イメージを伝えようというふ
うに考えているわけです。
だってよ
22 :
ノイズc(福岡県):2009/10/24(土) 04:11:05.91 ID:bgM+FRxn
>>21 分かりやすくて面白かった
いいぞもっとやれ
続き
「道」というのはどういうものかということですが、われわれは生きている、
これはよく道を歩いていくことに喩えられます。毎日毎日いろいろなことをし
ながら時間を過ごしているわけでございますけれども、この毎日毎日道に喩え
られ歩いている部分というのは、一人ひとり全部違うところを歩いているわけ
です。まったく同じところを同じ足跡を辿って、ピッタリ同一に歩いていると
いうのはひとつもないわけです。たまには同じところを踏む場合もありますけ
れども、一人ひとりが全部違うところを歩いている。全部違うところを歩いて
いるけれども、全体で見ると、そのみんなが踏んでいるところは大体同じよう
なところを歩いていっている。だから道ができるわけですね。大勢の人が踏ん
で歩いているところに、だいたい同じような道ができていく。道というのは、
その踏んで歩く拠り所、何かに乗っかってわれわれは生きている。その乗っか
っているそのところが何か。一人ひとりは全部違うけれども、だいたいみんな
同じようなところを歩いている、乗っかっている。そのわれわれが生きている
拠り所を問う。それが私の考える倫理学でありますし、道の学問であります。
この道を歩いていく時に、われわれは自分で考えて歩いているわけです。ど
うしよう、ああしよう、どこをどう行こうということを考えている。それは、
いまではあまりいい意味では使われないかもしれないですが、昔の言葉でいう
と、「我が道を行く」、私の道だと。我が道を行くというと、いまはわがまま
という意味でとられがちですが、「我が」の部分は確かに私独自ですけれども、
歩いている道というのはやっぱり皆が歩いている大きな道を歩いている。そう
いう意味で言いますと、我が道を歩くということと、そういう大きな道、これ
は私に対して公なんですが、公というものは同時に出てくるものなんです。自
分の道がちゃんとしていると、そこから他というもの、公というものもそこで
見えてくる。そんなふうに私は考えております。
24 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 04:15:18.89 ID:4lkP8MfV
続き
倫理の話で言いますと、世の中でいろいろとしょうもないことが起こります。
いま若い人たちの、あるいは大人たちの道徳がどうなんだ、倫理がどうなんだ
ということが言われますけれども、私が考えるそういう道徳が乱れていくとか
見失われていくということの原因は、いちばん基本的に申しますと、歩いてい
る道がまずはっきりしていない、そこに問題があるだろうというふうに考えて
おります。歩いている道というのは、自分が生きていくことです。これは、嫌
々生きていく人というのはあまりいないわけでありまして、みんな何かいいこ
とをしている。こうしたほうがいいと思って進んでいくわけです。
こうしたほうが悪いと思って進んでいく人はいないのでありまして、われわ
れが道を歩いている時に、常に自分で何かを選んでいきますけども、これは間
違っているかもしれないけども、でもこっちのほうがいいと思って必ず進む。
良さを選択しているわけです。そうしますと、その良さ、自分はこうすればい
いのだということが非常にはっきりしていること、それが自分の人生に自信を
持って、充実して生きていることだ。もうちょっと平たく言うと、生甲斐があ
る生き方をしている。その生甲斐とか、喜びの部分がはっきりしていないと、
そこでたぶん道徳が見失われていくのだろうというふうに考えております。
25 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 04:18:01.28 ID:4lkP8MfV
>>22 この人は東大の教授で非常にわかりやすい文章を書く人だ
扱ってることは本職の内容そのままなんだけどな
たとえ話で申し上げますと、何でもいいんですけれども、私は魚屋だ、魚屋
として生きているんだと自信を持って言える、「自信を持って私は魚屋の人生
を歩むのだ」と言えれば、自分はそのためにいい魚屋になろうと努力する。当
然そうですね、魚屋として自信を持ったいい魚屋さんになろうと思います。も
うそこで良さというのが必ず出てくる。自分はこうしよう、この道を行こうと
思った場合に、その道の悪いほう、最低のほうをやろうとは誰も思いません。
必ず選んだ中で、会社に入ったって自分は一生懸命やるんだというふうに考え
れば、これはもういい仕事をしようと必ず思うはずであります。それが、皆の
生きていく喜びになる。そういう喜びを持っている人は、馬鹿なことはしない
わけです。そんなことをしても、つまらないわけですから。必ず良くなるため
のことを自分で選んでやっていく。
たとえば、良い魚屋さんになろうと思ったら、お客さんに怒られるようなこ
とはしないですよね。するなと言わなくたってしないです。良い魚屋さんにな
ろうと思ったら、朝早くから起きていちばんいい魚を仕入れて、一生懸命いち
ばんいいものを喜ばれながら提供しようと。これは良い魚屋さんです。それは
自分が選んでしまっているわけですから、その中で先ほど申しました「こうし
なさい」「ああしなさい」というのは、もう自分の中から出てくるわけです。
26 :
ノイズh(東京都):2009/10/24(土) 04:18:03.33 ID:5TlSE3os
>>24 構造主義以降一周してからこういうの見ると
結構色々悩むよね。「カント嫁」で終わらすわけにもいかんし。
27 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 04:18:43.95 ID:4lkP8MfV
続き
この関係をひと言で言いますと、私の考えている倫理・道徳というのは、生
きていく喜びというのがあれば、おのずとそこから道徳が出てくるということ
です。道徳というのは先ほど法律と似ていると言いましたけれども、法律とい
ちばん違うところは、法律は従わないと外から罰せられます。ですからこれは
外からの強制で従わされているものです。ところが道徳というのはそうではあ
りませんで、罰せられないんですね。自分で決めて、自分に命令して、自分か
らやるのが道徳です。これはよくいわれることですけれども、法律というのは
客観的な外のものであって、道徳というのは主観的な内側からのものである。
自分で自分に命令して自分で従わなければ、それは道徳とは言えません。自分
で自分に命令するとなると、嫌なことを自分で自分に命令はできない。したっ
て嘘になります。やっぱり自分にする命令、自分にこうせよとか、自分はこう
するのだという命令は、自分の中の何か喜び、生きていることの喜び、その中
から出てこなければおかしい。
今日、その道徳が乱れているというようなことを、私も一応倫理学をやって
いますから、あちこちで「なぜだろう」と聞かれるんですけれども、これには
皆が、自信を持っていない、我が道がはっきりしていないからだと答えること
にしています。我が道をはっきりとつかめるための世の中の仕組みがうまくい
っていないからじゃないか。私は何だ、私は私だということをちゃんと成就さ
せてやるような、そういう仕組みになっていないんじゃないか。そういうこと
をちょっと考えるわけでありますが、これは、後でまた多少関連することを申
し上げるかもしれません。
これ系のスレだれがたててんの?
29 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 04:23:39.92 ID:4lkP8MfV
続き
「衣食足って礼節を知る」という言葉がございます。これは儒教のほうで使
われる言葉ですけども、この言葉の意味というのも、現代では非常に散文的な
意味で理解されております。つまり、腹が減っていてはいいことなんかできな
いという意味で捉えられるわけですね。何か礼儀正しいことをするとか、道徳
的な行いをするにも、腹が減っていてはしょうがない。まず生活をちゃんとし
なければいけない。そういう意味合いでとられることが多いようですけれども、
本来この言葉はたぶんそういう意味ではありません。衣食というのは、言い換
えますと、これは人生のことです。衣食というと小さいことのようですけれど
も、実はわれわれが生きている人生というのは、よく見ると食べて寝て、着て、
働いて、それの積み重ねであります。どんな人でもそうです。衣食という言葉
は、だから決して軽い言葉ではない。これこそが人生である。だから「衣食足
って」というのは、私は一人ひとりの人生が充実している中で礼節というのを
知るのだ、道徳というのが分かるのだと、そういう意味合いで理解すべきだと
思います。これは現代では忘れられてしまっている見方だろうと思います。
現代で似たような考え方というのは、憲法25条の中にありますが、「健康
で文化的な最低限度の生活を送る」。健康というのは飢えないということです
ね。文化的というのは裸ではないということです。そういう生活を送る権利が
ある。ここでは、健康も文化も全く生命を支えるということだけ、それだけの
意味になってしまっている。だけど本当は、健康で文化的な生活というのは、
これは、充実した人生のことです。だから、充実した人生を送る権利があるの
だというふうに本当は理解すべきだろうと思います。しかし、そういう考えは
今日はないですね。最低限は保障するから、あとは自分たちで人生を充実させ
なさいと、そういう理解でありますけれども、この辺が、昔、道という言葉が
生きていた頃と現代との非常に大きな違いじゃないかという気がいたします。
30 :
ノイズs(アラバマ州):2009/10/24(土) 04:24:47.63 ID:4lkP8MfV
続き
ちょっと倫理の話が長くなってしまいましたけれども、私が考えている倫理
学というのは、基本的に言いますと、生きている喜び、生の充実、そういうこ
とを問題にする。ですから、何をしているかというと、昔の人が人生の生甲斐
とか意味をどういうふうに捉えたか、そういうことをずっと研究している。人
生の意味を問う倫理学をやっているのだということでございます。
だんだん人生の意味の話に入ってまいりますけれども、私は人生の意味とい
うのは、置き換えますと、いま申し上げましたように、自分が生きていること、
それが充実していること、生甲斐を持って生きていること、喜びがあること、
そういうふうに置き換えて考えております。あるいは一生懸命に何かを望んで、
努力して生きている。生甲斐を求めて生きている。その時に感じられている、
あるいは求められている何かのことを、きょうの演題の「意味」という言葉で
表しております。
続き
これは、ちょっと翻って考えますと、もしかしたらあらゆる思想というのは、
そのことから出発しているのではないか。よく考えると、自分が何であるかと
か、自分が嬉しいこととか、喜びとかというのをどこか置き去りにして、こう
すべきであるというような議論は、何か実感がない。頭だけの話になってしま
うんじゃないか。ですからあらゆる思想は、いちばん基本には生きていること、
つまり人生の充実した内容、誤解を恐れずに言うと、「幸せ」と言ってしまっ
てもいいかもしれません、一人ひとりの幸せを求めること、そのことを認める
ところから出発するのが、あらゆる思想の基本じゃないか。こんなふうに考え
ているのですが、少なくとも仏教はそうなんですね。
仏教というのは、「人間というのは安楽を求める有情だ」という言い方をい
たします。これは、本当は資料をつくってお配りしておけば分かりやすかった
んですけれども、たとえば中村元先生の訳した『真理のことば』(岩波文庫)
の中では、「生きとし生けるものは、幸せを求めている」という言い方をして
います。だから殺してはいけないという話になるんですけども、漢訳の『法句
経』ですと、これは「安楽を求める」という言葉遣いになります。仏教という
のは、そのことを否定していないんですね。そんなことを求めてはいかんとは
言っていないんです。幸せを求める存在だというふうに押さえて、人間はそう
いうものであるということを前提として、仏教のすべての教えというのは出て
きている。
続き
ただし、「幸せは、求めているようにはいかないよ」「あなたが求めている
ようなやり方では求められないよ」ということはもちろんあります。「みんな
が幸せだと思っているようなのは、それは幸せじゃないよ」と、そういうふう
には言うことはあります。けれども、幸せを求めている存在であるという自体
は否定しないんですね。やっぱり思想というのは、人間というのはみんな幸せ
になることを求めている、そのことをどうするか、というところから出発すべ
きであります。特に仏教というのは、そういうことをはっきりと述べている思
想ではないかというふうに私は考えます。ですから、その意味では、仏教とい
うのははじめから人生の意味、そのことを問うている、そういう思想ではない
か。それが、きょうのお話の中身と関わってまいります。
「人生の意味について」という大きな題で、大きく出たなとお思いになって
いる方が多いかと思います。聞けるもんなら聞いてやろうといって来られた方
もおられるかと思います。あるいは、もしも「ないよ」と言われたらどうしよ
うと思って、恐る恐る来られている方もいらっしゃるかと思いますが、いま申
し上げましたように、生甲斐を求めるということを肯定するところから出発し
ますので、立派な答えは出ませんけれども、決して暗い答えにはならないと。
だいたい明るい方向でいく感じでまいりたいと思いますので、その辺はご安心
いただきたいと思います。
ここまでで興味を持った人は
>>15のリンク先
http://www.musashino-u.ac.jp/ao_mail_magazine/no081-100/no097.html の方を読んでな
33 :
ノイズs(アラバマ州):
>>20 本居宣長とか幕府なんの関係も無いだろ
歌サイコー、大和言葉サイキョー、You感受性信じちゃいなYOで
当時徳川幕府の時代に天皇褒め称えてんだぞ