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コデマリ(長屋):
「精神的勝利法」とは、植民地時代の中国の作家魯迅が主著「阿Q正伝」で戯画化した民衆の処世術だ。
それは、端的にいって、地主や軍閥や外国の支配と搾取に対し、真っ向から闘いを挑めない民衆が、自らを慰め、プライドを維持するために、ひねりだした「ごまかし」の方法にほかならない。
その核になっているのは、どうやら「自分は、ほんとは、偉いのだ」という思いなしにあるらしい。
自分にそう言い聞かすことで、軽蔑され罵倒されても、なんとか我慢ができる。
ところが、口惜しいことに、その自尊は、まま揺るがされてしまう。
公衆の面前で完膚無きまで叩きのめされでもすれば、とてもじゃないが、「自分は偉い」とは思いなせない。
だが、そんなときは、屈辱を「我慢できている」自分は「偉い」と思えばよい。
あるいは、ダメな「自分を軽蔑できる」のは、大したものだと思えばよい。
それでも気が治まらなければ、「こんな世の中なっとらん」と悲憤慷慨する手がある。ひとりでは物足りなければ、同じく悲憤慷慨している者どもと愚痴を言い交わせば、なにがしかは、強いヤツどもを「やっつけた気になれる」。
それでもなお気が治まらなければ、「自分より弱い者をやっつける」という手がある。 男なら少女、親なら子ども、教師なら生徒に、嫌がらせをしたり、暴力をふるえば、自分は「強い」と思うことができる。
それほどの勇気もなければ、「有名人と知り合い」になるという手もある。
実際に知り合いになれなくても、熱烈なファンになればよい。そのことで、自分まで有名になったような気分に浸れる。
とにかく、こうした「精神的勝利法」は、どれも、なかなかに狡猾。
これらを巧みに使えば、「意気軒昂」でいることができそうだ。
しかし、しかしだ。それでは現実は一向に変わらない。
個々人の「意気軒昂」も、およそ、その場限り。長続きするはずもない。
魯迅が「ごまかし」と喝破した「精神的勝利法」が、今の日本にも蔓延していなければよいのだが...。