ノーベル賞受賞者「ほとんど勉強しなかった。毎日遊び呆けていた。」
益川敏英さん ■人生変えていた?不発弾
「戦争の終わる直前に名古屋大空襲があり、名古屋市の鶴舞(つるま)公園の外れにある高射砲陣地から50メートルくらいに家があった。戦争のときの記憶(写真)は3つ。
木の箱に詰められた高射砲の弾が2つ並んでいて、おやじが勤労動員で運んでいるスチール写真が1枚。
家に焼夷(しょうい)弾が1つ落ちました。瓦屋根を破って2階の畳を突き抜けて下まで落ちてきた。それがコロコロッと転がっていったのが記憶にある。たまたま私の家のは不発弾だった。
向こう三軒両隣はみな焼けました。その写真が1枚。もう1枚はその後、布団や家財道具を積んだリヤカーをおやじが引いて逃げていく。そこに僕がなぜかちょこんと乗っけられている。
子供ですから怖かったことは記憶していない。しかし、あのとき不発弾が本当に爆発していたらどうなったかしらと観念的に想像すると、自分の人生もだいぶ変わっていただろうなと思います。
小、中学校は、ほとんど勉強はしませんでした。毎日遊びほうけていました。今だったら落ちこぼれていたと思いますが、当時はまだ回復する余地があった。
(市立向陽)高校に入って授業が始まる前に教科書をくれますね。数学をパラパラッと見ているとヘンテコな記号が書いてある。それは今でいう『Σ(シグマ)』。あれを使うと、結構いろんなものが出せる。面白いから夢中になってそれを計算していた。
以下略
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090326/acd0903260806004-n1.htm