ティエンに会ったのは11年前アメリカカリフォルニア大学で研修する時だった。
彼は勉強しにアメリカへ来たが母国はチベットだ。
彼はメードインチャイナ製品が嫌いだった。値段がもっと高くても中国産ではない
履き物を買いにショッピングモールを通った。貧しい学生が安っぽい中国製品に
どうしてそのようにアレルギー反応を見せるのか理由が分かるようになったのは親しくなった後だった。
理由は私たちの親は1987年10月チベットから独立を要求するデモを起こして
中国軍人に殺害されたからだ。あの時何百人が無惨に死んだのです。
幼い私だけやっと他の人々に導かれて脱出した。
彼の悲劇的な事情に言葉が無かった。韓国も亡国の歴史があるから彼のしこりが
残った限りを推し量ることができた。ただ韓国で民主化運動が最高潮に達した1987年内
にはそんな外信に関心を傾ける余裕があったかと思う。
ティエンに対する哀れみは失望に変わった。アメリカが第2次世界大戦当時
日系アメリカ人約11万人をWar Relocation Campsに強制収容したことを
思い出し背信感を感じたからだ。
その席でアメリカ糸たちは米政府の過誤を真剣に謝ったし日本人参席者たちは
わざと「過去を許す」言いながらも「二度とそんな人権弾圧があってはいけない」と強調した。
しかし誰も日本が韓国などを侵略した歴史は言及しなかった。
加害者である日本が被害者に化けたのには開いた口が塞がらなかったがティエンが
首をうなずくフォームがそんな発言に共感するようだった。
行事が終わった後、彼にそれを伝えた。中国に国を奪われたチベット人としてどうして
侵略国である日本を同情することができようかと。ティエンは困り果てた。
「ごめん…日本が韓国にそんな苦痛を与えたことが知らなかった…。」
お互い様だった。他の民族の苦痛が分からなくは互いに同じだった彼を咎めることもできなかった。
http://www.donga.com/fbin/moeum?n=column$i_18&a=v&l=0&id=200804160074