【断 呉智英】論理の整合性の問題である
先月二十九日、沖縄で「十一万人」の左翼・革新系の集会が開かれた。
戦争末期の集団自決への軍関与を曖昧(あいまい)にする教科書改定に抗議するものだ。
軍の「関与」を厳密に解釈するか広義に取るかで意見は分かれるが、今はそこには立ち入らない。
とにかく、近頃(ごろ)にない大規模な政治集会だった。
ところがその参加者数がおかしい。主催者側発表では二万五千平米の会場に十一万人だという。
四畳半(七・五平米)に三十三人の計算になる。常識的に見て無理な数だ。
しかも、会場の航空写真では、所々にあきが見える。どうもおよそ三倍増の誇大発表らしい。
この集会について産経新聞と朝日新聞とで論争が起きた。
論争は歓迎だが、望むらくは新聞同士ではなく大会主催者と論争が起きてほしかった。
私は学生時代からこの種の誇大な「主催者側発表」に疑問と怒りを抱いていた。
参加したデモや集会の参加者数が自分の実見した数よりどう考えても水増しされている。
これについて学生自治会や政治団体の指導者に問うても、誰もまともに答えてはくれなかった。
新聞や雑誌の記事や論評で取り上げられた例も知らない。
そして、左翼退潮の今に至るまでこの陋習(ろうしゅう)は続いていたのだ。
これは単なる計測精度の問題ではない。論理の整合性の問題である。
だって、戦時中の大本営発表を嘲弄(ちょうろう)してきた自分たちが同じことをしていたらまずかろう。
南京事件の犠牲者の数をごまかすなと主張してきた自分たちが参加者の数をごまかしたら
厚顔無恥というものではないか。沖縄戦の犠牲の真相を隠蔽(いんぺい)するなという
抗議集会で自らの参加者数の真相を隠蔽していたら説得力はゼロだ。
私は、左翼・革新に「自浄能力」はないと思う。いや、左翼・革新だけではないのだけどね。(評論家)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071019/acd0710190343001-n1.htm