1 :
依頼@293:
南北朝時代の武将、楠木正成(まさしげ)をまつった湊川神社(神戸市中央区)周辺で26日、
武者や稚児ら約600人と馬30頭が練り歩く「楠公武者行列」が5年ぶりにあった。正成役に
井戸敏三・兵庫県知事、正成の弟の正季(まさすえ)役に俳優の赤井英和さんが扮した。
よろいかぶとに身を包み、太刀や弓矢を携えた武者が馬に乗って現れると沿道からは拍手や
歓声が上がった。
武者行列は、正成が1333年に幽閉先の隠岐から戻る後醍醐天皇を神戸で迎え、京都へ先導
した様子を再現。1960年代半ばまでほぼ毎年あり、神戸の初夏の風物詩として親しまれていたが、
道路事情などで途切れがちになっていた。今年は没後670年大祭の一環として開かれた。
http://www.asahi.com/life/update/0526/OSK200705260023.html
2 :
通訳(北海道):2007/05/26(土) 19:23:07 ID:BQ/S3s9F0 BE:151916562-PLT(11000)
しのぶ>略>可奈子≧素子≧はるか>ニャモ>サラ>キツネ>なる>メイ>絵馬>スゥ>たま>鶴子>むつみ
3 :
割れ厨(北海道):2007/05/26(土) 19:23:27 ID:bENo13+I0
にんにん
4 :
名人(広島県):2007/05/26(土) 19:23:42 ID:xVMWpWIC0
南朝厨感涙
5 :
ハンター(宮城県):2007/05/26(土) 19:23:47 ID:PnCScmND0
皇居前の正成像はある意味完成形。
6 :
のびた(兵庫県):2007/05/26(土) 19:30:41 ID:enPsrKFW0
7 :
会社員(北海道):2007/05/26(土) 19:48:35 ID:jQKM0lDe0
8 :
通訳(長屋):2007/05/26(土) 20:17:51 ID:Nao/g7jU0
ゲリラ戦の天才・楠木正成、無敵の美少年・北畠顕家はともかく、
新田義貞って負けてるイメージしかないんだけど、
そこんとこどうなの?
9 :
グライムズ(神奈川県):2007/05/26(土) 20:20:34 ID:+SOT6JSa0
大阪府の四條畷市の楠木と、どう違うの?
10 :
通訳(長屋):2007/05/26(土) 20:27:42 ID:Nao/g7jU0
>>9 四条畷の戦いで死んだのは、正成の息子の正行(まさつら)
11 :
グライムズ(神奈川県):2007/05/26(土) 20:28:43 ID:+SOT6JSa0
楠しのびが本名で正成はミドルネーム
これ豆知識名
14 :
通訳(長屋):2007/05/26(土) 20:33:05 ID:Nao/g7jU0
>>11 いままさに太平記を読んでる真っ最中だから・・・
多分1ヵ月後にはすべて忘れてる
15 :
社長(東京都):2007/05/26(土) 20:33:51 ID:AwV1FPDk0
太平記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその
崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、二代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(131
8年 (文保2)- 1368年(貞治6)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院
本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊
鎮魂的な意義も指摘されている。
内容
全体の構想にあるのが儒教的な大義名分論と君臣論、仏教的因果応報論が基調に有り、宋学の
影響を受けたとされる。この考え方にもとづき、後醍醐天皇は作中で徳を欠いた天皇として描かれ
るが、水戸光圀は修史事業として編纂していた「大日本史」において天皇親政をめざした後醍醐こ
そ正統な天皇であると主張した。これにより足利尊氏は逆賊であり南朝側の楠木正成や新田義貞
などは忠臣として美化(徳川将軍家は新田氏の末裔を称していたため)され、これがのちに水戸学
として幕末の尊王攘夷運動、さらに太平洋戦争前の皇国史観へと至る。
中盤の後醍醐天皇の死が平清盛の死に相当するなど随所に「平家物語」からの影響がみられ、ま
た時折本筋を脱線した古典からの引用も多く、脚色も多い。
高帥直が好き
17 :
通訳(長屋):2007/05/26(土) 20:37:58 ID:Nao/g7jU0
>>13 そういわれれば確かに。
でもその後、尊氏が関東で反逆して以降は、あんまり活躍してなくない?
太平記の前に日本外史よんだら、ぜんぜん活躍してなくてガッカリしたんで。
18 :
社長(東京都):2007/05/26(土) 20:41:56 ID:AwV1FPDk0
19 :
グライムズ(神奈川県):2007/05/26(土) 20:46:17 ID:+SOT6JSa0
20 :
社長(東京都):2007/05/26(土) 20:48:07 ID:AwV1FPDk0
>>17 楠木正成は水戸光圀が著した「大日本史」やら、そこから始まる”国学”やらで、
忠君愛国の代表として持て囃されたからね。
明治維新の原動力として国学は猛威を奮ったから、明治政府でも当然、
藤田東湖が著した「弘道館記述義」などもかなり読まれた。
今読むと退屈だが。
「弘道館記述義」は陸軍中野学校でも教材として用いられたし、その校内には
第楠公を祀った神社まで設けられ、夜ともなれば、中野学校生らは神前に正座
したりもしていたという。
・・という戦前の教育のスーパースターだったんだな。
明治維新の名残でもあり、軍国主義の道具にも使われ、色々だけど、千早城戦法
とかってのは誇張あり、脚色有りにしてもやっぱり面白いね。
21 :
文学部(長屋):2007/05/26(土) 20:48:26 ID:2T/w2g1z0 BE:212806433-2BP(223)
また小楠公スレか
町田康のエッセイでしか読んだ事ないわ
24 :
プロ固定(福岡県):2007/05/26(土) 20:50:54 ID:u5q+MqGX0
うんこ放り投げの人か
25 :
名人(広島県):2007/05/26(土) 20:51:16 ID:xVMWpWIC0
足利尊氏は楠木正成にひどいことしたよね(´・ω・`)
26 :
通訳(長屋):2007/05/26(土) 20:51:24 ID:Nao/g7jU0
>>16 仲間の武将の奥さんが絶世の美女で、
彼女を手に入れるためにその武将を讒言して殺してしまった
というエピソードがあって、ひどいやつだなーと思った。
奥さんもけっきょく死んじゃうし。
27 :
社長(東京都):2007/05/26(土) 20:52:40 ID:AwV1FPDk0
>>19 ”悪党”ってのは今の言葉で言う、”わるもの”という意味ではない。
リンク先に有るとおり、
悪党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
悪党(あくとう)とは、一般的に社会の秩序を乱す者を意味する言葉で、日本史においては
中世の鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した、既得権益を守るために荘園領主
など外部勢力に抵抗する「自主独立の武士の集団」を指す。なお、この場合の悪党とは
「悪い」というよりも「強い」などといった意味の強い語である。
↑
当時の体制において、大楠公は叛乱分子とも言えたかも知れない。
”南の木の下に云々”とかのお告げで探してみたところ、楠木正成公が現れ、
「天下草創の功は武略・智謀の二つにて候。もし勢を併せて戦はば、六十余州の兵を集めて武蔵・
相模の両国に対すとも、勝つを得難し。もし謀を以て争ひ戦はば、東夷の武力ただ利を砕き堅を破
る事、欺くに易くして恐るるに足らざるところなり。
合戦の習ひにてへば、一旦の勝負をば必ずしも御覧ずべからず。
正成一人未だ生きて在りと聞こし食し候はば、聖運はつひに開くべしと思し召し候へ」
と頼もしい奏上と共に颯爽と歴史に登場、というわけである。
28 :
グライムズ(神奈川県):2007/05/26(土) 20:57:45 ID:+SOT6JSa0
>>27 ありがとう。
良かったです。
実は自分の先祖が楠木正行の家来だったもので・・・。
>>28 つうかウィキペディアで調べて気になったなら悪党のリンク見とけよ
30 :
通訳(長屋):2007/05/26(土) 21:06:55 ID:Nao/g7jU0
>>20 楠木正成が特別扱いされ過ぎてるってことか。
忠臣モノって嫌いじゃないんだけど、後醍醐天皇って
そんなに立派な感じがしないんで、よくああいう人に従って
命がけで戦えるなーと思う。
31 :
通訳(長屋):2007/05/26(土) 21:13:05 ID:Nao/g7jU0
>>28 スゲー。こんなところで楠公ゆかりの人物の子孫に会えるとは。
ちょっと感動した。さすが2ch。
さしさわりなければ、その先祖の苗字だけでも・・・。
32 :
トンネルマン(大阪府):2007/05/26(土) 21:13:42 ID:qMo0xCf/0
源頼朝も源頼家も源実朝も河内源氏なのに
何で楠木正成は河内人の代表ヅラしてんの
33 :
社長(東京都):2007/05/26(土) 21:16:40 ID:AwV1FPDk0
>>30 まー、後醍醐天皇が親政を布こうとしたことと、
尊皇思想で倒幕し、明治新政府を建設したことが重なるんだよね。
そこで国学の中で、理想像として楠木正成公(出身も不明な悪党であるが)が採り上げられた。
そんなところが、忠君愛国的にもスーパースターとして採り上げられた。
学校教育では当然、史上最高のスーパースターとして教育された。
敗戦後は今度は一気に人気低下。今どき知ってる子供は少なくなってきた。
学校でほとんど教えないですからね。
でも、そんな近現代における扱いの変化とか、政治的な利用や批判は別として、
やっぱり彼の颯爽とした登場、活躍、そして忠誠を貫いて滅びていく、そんな生き方には
なんか男として本能的な魅力を感じざるを得ませんね。
34 :
通訳(長屋):2007/05/26(土) 21:26:36 ID:Nao/g7jU0
>>32 出身はともかく、頼朝以降は鎌倉が本拠地だったし。
正成はずっと河内近辺で戦ってたし。
35 :
金田一(神奈川県):2007/05/26(土) 21:32:02 ID:Y+kv9lQy0
新田義貞
北畠顕家
36 :
通訳(長屋):
>>33 負けるって分かってる戦にも平然と出かけていく正成はかっこいい。
あれはハードボイルドの世界。
政治的な面を差し引いても、単純に言ってかっこいいよね。
逆に、戦いのことが分かってない貴族の意見にそそのかされて
勝ち目のない戦いに正成を送り出した後醍醐天皇が、
愛国思想に重ねられてたというのも、皮肉な感じがする。
太平洋戦争で、現場の状況がわかってない司令部が
勝てる見込みのない戦いに兵士を送り出してたのと重なる。