北海道開拓記念館(札幌)はサハリン残留韓国・朝鮮人の戦前から現代に至る生活文化の
変遷を三年がかりで調査・研究し、その成果をまとめた。キムチなどの食文化は根強く
残ってきた一方で、失われてしまった文化も多い。日本、旧ソ連、ロシア−と、統治国が
次々と変わる時代の激動に、翻弄され続けた人びとの暮らしが見えてきた。
戦前、戦中、日本は「募集」や「徴用」などの形で朝鮮半島から多くの人びとを労働者と
して樺太(サハリン)に送り込んだ。終戦後、サハリンにいた約四十万人の日本人は大半
帰国したが、二万三千−四万三千人とされる韓国・朝鮮人は取り残された。
報告によると、終戦後、島の統治が日本から旧ソ連に代わると、食材や調理用具は不足した
が、食文化は大きな変化なしに残った。 朝鮮半島では結婚式などの祝賀行事で食べられる
もちは、日本のきねや臼を使って作り続けられた。旧ソ連時代にはもち米の入手が難しく
なったが、朝鮮民族が住む中央アジアのウズベキスタンから取り寄せた。旧ソ連崩壊後の
十五年ほど前には州都・ユジノサハリンスク(豊原)にもちの製造工場も建てられた。
残留韓国・朝鮮人は家庭菜園でハクサイなどを育て、伝統食品のキムチを作り続けた。戦後
間もなくはトウガラシが手に入りにくく「白っぽいキムチがたくさんあった」(七十代男性)
という興味深い証言も。いまは、サハリン在住のロシア人も好むため、残留韓国・朝鮮人が
市場で売るキムチは人気食品の一つに成長した。
消えた文化も多い。朝鮮半島では物を頭の上に乗せて運ぶ習慣があるが「日本人が笑うから」
(七十代女性)、「日本人には『朝鮮人、朝鮮人』と言われ、ロシア人も笑った」(七十代
男性)との理由から次第に廃れ、現在では見られなくなった。民族衣装のチマ・チョゴリは
旧ソ連時代にほとんど消滅したが、一九八七年のペレストロイカ(改革)以降は韓国から
入るようになり、若い世代も着るようになった。 池田学芸員は「民族には環境がどれほど
変わっても受け継がれるものがあり、それが文化の力だと思う。サハリン残留朝鮮人の
文化史は日本史の一部でもあり、しっかり調べて理解するべきだ」と話している。
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20060918&j=0022&k=200609182476